現地調査レポート/小城郡小城町/円城寺 <調査者> 古賀 康介 小島 俊宣 佐伯 大輔 ・水争いは、畑田地域での水量関係で争いがあった ・圃場整備はS51年に完成 ・1反あたりは7〜8俵とれた ・水路が他との境界であった ・一等田は晴気地域(良田)で、二等田は畑田地域(悪田) 橋や道は昭和24年と昭和28年の水害で壊れてしまい、残っていない。圃場整備以前は晴気川から用水を取っていて、畑田地域では水量の関係で争いがおこったそうです。また分水堰の名は「なしのいぜき」といって晴気川上流にあり、晴気川は川原川、寒気(かんげ)川が合流した川だということです。 昭和51年に圃場整備が完成したそうです。圃場整備後1反あたり7〜8俵とれたそうで、この値は戦前でも戦後でも変わらなかったそうです。裏作のできた地域は晴気川沿いで麦などを栽培していたそうです。しこ名のことをたずねてみましたが、それについてはわかりませんでした。 出分 区長 北島雅利さん(66歳)にたずねました。 |