現地調査レポート/佐賀市西与賀町/高柳 <調査者> 藤澤知寿子 三成雅代 <高柳>・・・緑線で囲んでいるのが高柳(西与賀町)の境界(地図は佐賀県立図書館所蔵) <地名の由来> 「高柳」は現在、西与賀町と本庄市の二つに分かれている。これは、旧来の高柳が佐賀郡の西与賀村と本庄村との境に位置していたために西与賀村高柳町と本庄村高柳町とに区別されていたものが昭和26年市町村合併によって村は市へと変わったものの、高柳の分割はそのまま受け継ぐことになったからである。今回の調査でも、本庄市の方へと迷い込んでしまったりして調査をこじらせた。地図を見れば、明確であると思うが、高伝寺から左半分が西与賀市右半分が本庄市だといってよいであろう。 <しこ名の由来> A、Cの前田・・・田んぼの持ち主の人が家の前に位置する田んぼをこう呼んだ。 Bまつざえもんやしき・・・まつざえもん屋敷というのがこの近くにあったらしい。 G吉野うち・・・吉野のとなりに位置している。Hうおぼい・・・「うおぼり」にちなんで ※高柳の場合、田んぼが実質、西与賀村に位置していても本庄村の方からやってきて、西与賀村側の耕地を利用している人もいたらしく、そういった所のしこ名は西与賀村の古賀さんにはうかがうことが出来なかった。本庄市の方にも伺うことが出来るのであったなら、もう少し「高柳」について詳しく知ることができたであろうに、と残念だった。 入会山・・・なし <水利のあり方> 昔は人力水車であったが、今はモーターポンプによる水路利用を行っている。村の中で水路を共有していた。水争いはほとんどなかった。共有する祭、みんなで協力して、水不足になりそうな時は草などを川から除去したりして掃除していた。堀が多かったので、あまり水不足ということは起こらずに済んでいた。1994年の水不足もこの地方は影響を受けることはなかったらしい。 <村の耕地> 湿田はいくつかあったらしいが、(それもほんの一部で場所は不明)いわゆる乾田と呼ばれるものはなかったらしい。 ・肥料・・・戦前は家畜(にわとり)や人間の糞など。戦後はりゅうあん、カリ肥料などの化学肥料を使うようになった。 <村の姿の変わり方>と<日本農業への展望> 住宅数が三十戸から三百戸へと住宅化がすすみ住宅増加により、日陰も増え農業がやりにくくなった。現在、農家をやめた人もパートなどについている。西与賀村高柳も農家は16軒から6軒へと減っており、農地の規模も昔は2町〜3町(1町=1ヘクタール)で農家としてやっていくのに十分であったのが、肥料代、資材の値上がりで、そうではなくなってきている。つまり、若い人に田んぼを預け(=共同化)、田んぼの管理規模を拡大し、農業の「大型化」を進めていくことが大切になってきているのである。そして昔、百姓が借り出していた北山ダム(農業用水用)を利用しており、大出水利組合(現在は佐賀土地改良区と改名)が管理していた。住宅化がすすんでいる今、生活用水が不足しているため、農家(北山ダム)は佐賀市に水を売ったりしている。 <聞き取りの方> 古賀はじめさん 昭和6年生まれ ・現在、米や裏作としては麦、たまねぎを作っているそうです。 〜調査を終えて〜 全く見知らぬ地に、二人で降り立った時には本当に私たちだけで調査をやり遂げられるか、とても心配でした。実際、2件のお宅に伺ってみると初めて会う私たちにとても親切にしてくださって、無事調査を終えることができました。佐賀に行って昔の村の姿をたずねるなど、この講義を通じてでないと、私たちは体験することはなかっただろうと思います。けっこう、二人とも楽しく調査を進められたので、よかったです。 |