現地調査レポート/佐賀市西与賀町/元相応

<調査者>

本田智子

本岡法子

 

―西与賀元相応―

<お話を伺った方>

古川正(74歳)

古賀又八(78歳)

村岡正(78歳)

 

<小字・しこ名>

小字川西のうちに

マルポンダ(丸い田んぼ)

小字屋敷田のうちに

マエダ・前田(家の前にあった田)

   マチダ(町田)・タチゴモリ(館籠り)・ジュウノカク・ゴノカク・ヨシミチ

   コエサ・オオミチ・イカイ・イッポンダニ(一本谷)・ニホンマツ(二本松)

   ニホンエノキ(二本榎)・ゼニザイビ・ヒラキ

 

<小津江の跡>

 小津江は多布施川の下流で元相応西端に至る堀筋が当時の小津江の名残である。本庄江の東側を独立して有明海に流れていた小津江、本庄江両江の元であるので元相応と名づけられた今日の元相応は当時、海岸の潮待ち港(ひなん港)としての機能を有していた港であった。小弐政資が文明14年(1482)に与賀城(現在龍泰寺)に居城してから船運の主体性が小津江は更に衰退し、元相応の泊地に代わって、本庄江の今日の元相応が繁栄したと考えられ、政資が本庄江と小津江の両江がならんで流れているので相応と名づけたと言われる。

 

<善佐橋について>

 昔、この橋の近くに善佐衛門という人が住んでいたため、こう呼ばれるようになったらしい。善佐橋が架かっていた川はかなり大きな川で、当時の人々はここから田んぼに水を引くために用水路をつくり、また排水もこの川に流していたという。



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