現地調査レポート/佐賀市西与賀町/今津 <調査者> 大塚圭介 野田正和 ・今津 下今津のあたりは田んぼがほとんどなく新興住宅地になっていた。そこで、田んぼに面している古い家の持ち主である杉山さんを訪ねてみると杉山撟さんは留守でありその奥さんに話を聞いた。するとやはり最近では田んぼが減りマンションや家に変わってしまって田んぼを持っている家は下今津では杉山さんただ1軒だけだということだった。しかし、田んぼのしこ名を知っているのは杉山撟さんだけだということだったので、調べることが出来なかった。
また下今津には渡船場があったという話を聞くことが出来た。 江戸時代の末頃から船は本庄江を自由に上下して高橋、厘外津、今津相応津は河口として栄えたなかでも今津は早くから開けた商人の町として銀行、郵便局や小学校分校などが建った。 渡船場は右岸の有重と左岸の今津は高橋をまわって用を達するという不便を感じていたので設けられた潮が満ちるとだんべい船に人と荷車をのせて岸につけ、潮がひいたあとは船を固定して船から両岸にみち板をのせて常時とおしていた。 昭和38年に本庄江改修工事と同時に今修橋が架橋され、今津渡船場が廃止された。 それから、古くから農家をやっていた野田さんという方を教えてもらいそこの家へ行くことにした。 厘外西:キタウラ(ミズユビ)、チョウノツボ、ロク田、ヨラギシ、ヤコダ、タンバ モチマチ 八竜 :ハチリュウ、ウラバシ、ワボンウチ 厘外 :ハチマン ・厘外西の田んぼのしこ名の「ミズユビ」の由来「ユビ」というのは田んぼの水を排水する所を意味していてそれがあるため、地元の人はその田んぼをミズユビと呼んだ。 ・厘外西、八竜、厘外一帯は県道西与賀・本庄線の東側の水路を使っており、水路を争うことはなかったそうだ。 ・北の「末広一丁目」あたりの水路では昔、水路争いがよくおきていたそうだ。 ・地図で宅地造成中となっているところには城西団地という立派な建物が建っていた。 ・田んぼが減っており今津や厘外西の場所が分かりづらかったが昔からある寺や神社だけは残っていたので、それらを手がかりに場所を探した。 野田さん宅を訪ねてみると主である野田俊明さんは不在であったが、田んぼを持っているのは確かであり、野田俊明さんの父親も農業をやっており昔の話を伝え聞いているかもしれないので、またあとで訪れることにした。 もう一度訪ねた時運よく丁度野田俊明さんがトラックで帰ってこられた野田俊明さんは63歳であり、父親から田んぼを譲り受け農業を続けているということだった。 そして、訪ねた理由を話し地図を見せてしこ名などを教えてもらうとしたところ、前にも九州大の生徒が来たということだった。 おかしいと思い詳しく話を聞いてみると、前に来た九大の生徒たちは厘外西、厘外、八竜あたりのしこ名をきいて高太郎付近にそれを書き込んでしまったようだ。だから正しく調査しなおし正しい場所へ書き込んだ。 (地図は佐賀県立図書館に所蔵) |