現地調査レポート/佐賀市鍋島町/西八田 U.調査地 佐賀市鍋島町江頭西八田地区 V.訪問先 副島基司 副島孝文 副島商店 加藤商店 中島信義 志津田末光 他 (敬称略) W.集落の範囲 地図上に記載(佐賀県立図書館所蔵) X.しこ名一覧 こも土井(こもどい) 大橋(おおげし) 野口(のぐち) 穴田(あなだ) おぎだ みょうしょ 八反角(はったんかく) いせいん あらまき ふくろ田(ふくろだ) みょうまち 大渡(おおわたり) 西八田(にしわった) みぞこし なぎまち ひがしどい おおにし
Y.しこ名の由来 おおばし:当時、そこには大きな橋がかけられていた。そのため、土地の入々は大橋(おおばし)と呼んだ。 ふくろだ:当時、その辺り一帯の田は、この集落の中で高度が最も低かったため、最後に水を張っていた。そのため、『水が集まる田』という意味でその土地の人々はふくろだと呼んだ。 Z.当日の行程 9時30分に車で福岡を出発した私達は、三瀬峠を越えて佐賀県に入った。途中で同行者の門岡・前山を降ろしてから、私達の調査地である江頭・西八田へと向かった。現地に到着した私達は、車をとめてから調査にあたった。現在の地図と30年前の地図とを見比べると、非常に田んぼが減っていて、農業を営む方が少なくなっているように思えた。 まず、江頭の副島さん宅を訪れたが、不在のために話を聞くことができなかった。次に、別の副島さん宅を訪ねたが、このお宅でも話を聞くことができなかった。二人とも市役所に勤めているということで、平日は家にいないらしい。また、奥さんにお尋ねしたが全然分からないとのことだった。 そのため、農家のお宅と古老の住んでおられるお宅を訪ねて自力で調査することにした。そこで、商店から農業を営んでいるお宅と古老の住んでおられるお宅を聞いて、順に訪ねていった。しかし、不在のお宅が多くて、思うようには調査が進まず困難をきわめた。 やっとのことで中島信義さん宅で話が聞け、江頭周辺の部落の名前が聞けた。その他いろいろなお宅を訪ねていったが、なかなか田んぼのしこ名については聞けずにいた。しかし、志津田末光さん宅において調査することが出来た。 この後、私たちは車に戻って調査の結果について話し合い、もう一度結果をノートにまとめて、途中で別れた門岡・前山と合流して、もと来た道をもどって福岡に帰った。
[.感想 福岡を出発する時は、空は曇っており雨が降るのではないかと心配だった。しかし、現地に着くと天気はとてもよく非常に暑かった。現地では迷ったりして、思った以上に時間もかかったが、無事に調査を終えることができてよかった。また、予想以上に「知らない」や「分からない」とおっしゃる方が多く、「しこ名」を説明するのに苦労を強いられた。にもかかわらず、多くの人達に話を聞かせてもらうことができず大変残念に思う。最後に、このような現地調査は、考えていた以上に多くの困難を伴うものであったが、それを身をもって体験することもでき、私達にとってよい経験になったように思う。 \.最後に この調査を終えるにあたって、鍋島町の様子の変化について少し述べておきたい。行程の中でも書いたのだが、30年前の地図と比べると現在は田んばが非常に減少しており、農業を営む人々の数が確実に滅少しているのが分かる。事実、民家の数がかなり増加しており、同行者の門岡・前山を降ろした地域に比べるとひらけていた。また、古老の方が減少しているので、しこ名について知っている人々も少なくなっており、調査を進めるのが大変だった。たくさんのお宅を訪ねたが、参考になる調査ができたのはわずか2軒だけで、とても残念であった。また、このようにしこ名の調査だけで精.一杯であったため、その他の調査、水争いのことやその他のその土地独特の言い回し、豊作・凶作の年の収穫量、どの田んぼにはどこの水路から水を引くのかなどについては調査することができなかったことを残念に思うと同時にこの場をかりておわびしたい。 この調杳を行ってみて、しこ名が消えかかっているのは何とも残念なことである。しこ名、言ってみれば一種の方言、その土地の伝統文化が消えていっているのである。政府の行政区画による呼び名でなくて、地元の人にしか分からないが味のある呼び名はいつまでも消えないで残ってほしいものである。その土地独特の呼び名(佐賀県の場合は『しこ名』といっているが)は各都道府県にもあると思うが、他の地域でも消えていっているのではないだろうか。そんなことを考えると何とも寂しい気持ちになる。こんなに素晴らしい文化が消えていくのはもったいないが、それが時代の流れであろうか。せめてこの素晴らしい文化が何らかの形で残ってほしいものである。これで私たちの『佐賀県しこ名調査』を終えようと思う。 |