歴史と異文化理解Aレポート

 

<調査者>

原口徹

藤原康太郎

 

<森田村>

・村の水利のあり方

 西半分は嘉瀬川、東半分は多布施川の水を利用してきた。田に水をためる時は「しゃみせんいび」と呼ばれる水門を使い以前は「水車」を使っていた。貯水池の必要はないらしい。「日どり」という、年により偶数の日は上流が優先などと決め、水を分配していた。

 

・水げんか

 川に水源を頼っているため、川の上流と下流で起こる。特に鍋島と森田の間でよくあっていた。つまり、上流で「いび」を閉じっぱなしにすると下流の人々が夜に忍び込み「いび」を開けようとして争いが起こる。近年でも水不足の際にはポンプを田に投げこんだりすることもあるらしい。しかし、現在では国の機関が水を調整するようになり、上流にも下流にも平等に分配できるよう努力している。

 

・旱魃や水害

 50年前……水が足りなかったため山の草木が枯れ、白い山になった。しかし、少しでも実うけのあった田では、よく米が取れたらしい。

 昭和28年……水害、1週間くらい水が流れ、佐賀市から船で炊き出しの食料が届いた。拡声器を使い人々を集めていた。1ヶ月遅れ(おそまき)で田植えをした。10月に暖かい日が続いたので約8割ぐらい収穫があった。畑に苗代を作ったりしたらしい。

 28年前……旱魃だったが共済があり、また政府分を少なくしたりしたので生活が少し苦しいだけで大丈夫だった。水は土地的に助かったらしい。

 去年、一昨年……個人のポンプで対応。「いび」を12ヶ月間閉めっぱなしのときもあった。しかしこちらが考えるほど困ってなかった。

 

・水対策

 10年前ぐらい前に自然の流れだけでは間に合わなかったのでポンプを購入、水路も国の管理下にあり、以前より効率が良くなった。

 

30年前だったら(予想)

 地が割れて米がほとんど取れない。水げんかがあっただろう。(実際にあったがそれほど深刻ではなかった)

 

・入会地 現森田地区はなかった。

 入会山があった。国のものだったので竹などは取ってよかったが、今はダメになった。

 

・森田のしこ名

 いずみで ・・・嘉瀬川が氾濫した時に村を守るために堤防を作ったときにできた呼び名

 さんのかく・・・三角の田だったから

 まがりみち・・・曲がり道にあった田

 矢倉・・・地名

 なまずぼい・・・なまずが多かったから

 沖田

 

・東新庄のしこ名

 じゅうはちで・・・やこう、たぬきがでていた。嘉瀬川上流

 じゅうごさん

 ひがしぐうど

 えびだいび

 おぎのいび

 お勝軍さん

 

・今後の農業の展望

 十年後の先が見えない。後継者不足もその要因らしい。農薬などによりお金はかかるがその分収入も増え、作業も楽になったようだが専業農家は減ってきている。多くの田を持つ農家は少なく、その分広い田を持たない農家は人に田を預け働きに出ているようだ。また政府の食管法や自由化、減田政策など補助金に頼っている農業の今後はまったく先が見えない状況にある。

 

・感想

 今回の調査は初めての経験であり、楽しくもあったし、非常に勉強にもなった。しかし困った点もあった。1つは、「しこ名」を相手が理解してくれなかったこと。こちらの説明不足が大きな要因ではあるが相手の状態もあまり良いとはいえなかった。もう一つは大学の調査ということで相手が物怖じしてしまいいくら説明しても大げさに考えすぎていた。最も困ったのが調査依頼の手紙出した家とその紹介してくださった人もことごとく断られたことだった。頼み込んでやっとお願いしてもらったのは調査前日だった。そして、集会があるのでそのとき地図に書き込んでくれると言ってくれた人が2月にならなければこちらに返せないと言った時が非常に困り、急遽こちらで地図を作成したのであまり完全なものとはいえない出来になってしまったのが残念だった。



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