現地調査レポート/佐賀市鍋島町/増田

 

<調査者>

安藤祐介

加藤善大

 

 

 増田は手紙を出した方から断られたため、別の人を紹介してもらい、ミルンというお店を経営している横尾さんを訪問しました。鍋島のほうは断られた後、他の人を紹介してもらえませんでした。現地でも探すことは出来ませんでした。

 

<しこ名>

 増田のしこ名は訪問したところあたりが「中村」、北の方が「地蔵籠」、南の方が「浦田籠」、このくらいで他には使われていないそうです。昔は9反の田は「クセダ」、4反の田は「シッタダ」というのがあったそうですが、具体的にどこかは分からないそうです。また最近まで住所に「浦田籠何番」など土地の権利書にもしこ名が使われていて、これは江戸時代からずっと使われていたそうです。

 

<水利慣行>

 次にクリークは八尼堀(はちがわ)、おくまん堀(おくまんさん)そして横新堀、縦新堀これらは昭和28年の大水害の後の整備のために、なくなってしまったそうです。

 

 増田は善瀬川からの引き水で、取水口は井樋尻一本のみです。「石井樋」というものが河に作られていたためこの地域では水不足はなかったそうです。石井樋については詳しく教えていただきました。これを作ったのは、成富兵庫茂安という人で、ずいぶん誇りにしていらっしゃいました。大体、大河から水を引けたために、クリークはあまりないそうです。

 

 昭和の初め水争いがあり、善瀬川下流のほうの人が水をせきとめるせきを壊しに来るので、交代で3人が徹夜で番をしていたそうです。最近でも渇水期には国営水路でも見張りがあったようです。

 

<農業>

 米は医大の辺りは湿田だったのであまりとれず、麦も出来ませんでした。11俵ぐらい。増田の辺りでは18俵、大豊作でも9俵で、やはりあまり米は取れなかったそうです。しかし、米が取れなかったため、税金は安かったそうです。この辺りは水害の度に砂が流されてくるために土壌が砂質で米があまりよくできないそうです。今では昭和32年にダムができたためにすべて裏作が可能になったということです。

 訪問した方は、横尾良治さん、大正4年生まれ。



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