歴史と異文化理解A 木ノ角地区調査レポート

 

調査日 平成8120日(土)

訪問先 瀧 勝博さん宅

 

<調査者>

市野 欽一

岩瀬 龍生

 

(調査方法)瀧さん宅の玄関で地図を広げてこちらの質問に応じる形で答えていただいた。

(内容)

1) しこ名

田畑のしこ名は瀧さんが農業に従事していらっしゃったころは小字で呼ぶことが多かったので教えていただいた。しこ名は「グチノウラ」、「コウヤシキ」、「デエホ」、「天神ぐもり」、「マエダ(マイダ)」、「クラノウシロ」以上6つと数が少なかった。そこで他の古老の方からお話を伺おうと思ったけれど、木ノ角には瀧さん以外には当時のことを知っている方がいなかったので、引き続き瀧さんからお話を伺うことにした。堀のしこ名は「マタシチボイ」「カンオケボイ」「ジョウビ(ジョウビボイ)」「ゼンモンボイ」の4つで、このうち「カンオケボイ」の名前の由来は瀧さんの幼少時代この堀から棺おけが浮かんできたことにあり、当時大人が子どもをしかるときに「カンオケボイに落とすぞ」と言って脅していたと瀧さんは語る。又「ゼンモンボイ」については昔乞食がこの堀にはまって死んだことにその名が由来するらしい。ちなみに「ゼンモン」には乞食という意味がある。

 

2)村の水利のあり方

  木ノ角は八尻川(はっじ川)を八尻橋付近の「ヒモン」でせき止め水位を田の高さに上げることで田に水を引き入れるという方法を取っていた。八尻川の下流には東新庄地区があり「ヒモン」の開閉は常に東新庄との話し合いで決められていた。「ヒモン」の開閉は基本的には部落区長に権利があり土地の地権者の要求は必ず区長を通す必要があった。

              図省略(佐賀県立図書館蔵)

  上図は木ノ角地区南西にあるヒモンの昔の図である。現在では改良されてネジの巻き上げ式となっている。

  1994年の旱魃のときは頻繁に東新庄地区と話し合いがもたれヒモンの開閉等の水の利用について話し合われた。最終的に取り決められたことはヒモンを一日おきに開閉することだった。もちろん旱魃の年なので一日ヒモンを閉めたからといって田に水を引けるほど水位が上がることはなかったけれども、ポンプがこの地区には設置されていたので十分水を引くことが出来たそうだ。そこで30年前にこういうことが起こった場合どうなったでしょうかと尋ねたところ、瀧さんはこのように答えられた。

  その頃から動力ポンプはあったけれども、もしそれもなかった場合はホリから水車で水を引いたりバケツで水を汲んでいたりしていたそうだ。滝さんはバケツで水を汲んでいらして1日に何度も水を運んでいらしたらしいのだが、あまり効果はなかったようだ。本当に旱魃のひどいときはあぜ道の両脇1mぐらいの範囲内にある稲が枯れていたそうだ。昔から東新庄とかなり水争いがあったらしく、去年のような旱魃の時には水泥棒も出たらしい。

ホリのゴミの所有権には例えばホリの北側にある田んぼの地権者がそのゴミの所有権を持っているというような規則はなかったらしく、瀧さんがおっしゃるにはホリの所有権は昔のこの地方の権力者が決めたことが今日まで残っているということだ。村田という水田がこの地区にはあったそうだが瀧さんにも具体的な場所は分からないらしい。またこの地区には入会山はなかったということだ。

 

3)村の耕地

  木ノ角地区では「エグチノウラ」、「デエホカ」などの地図の水受け堤防より北にある田は湿田で良田ではなくそのかわり群落の南側は乾田で良田である。戦前は良い田で反当10俵取れ悪い田で8俵ほど取れた。またこのこと使っていた肥料は「たんぴ」というもので硫安、カリン酸、カリをまぜたものである。ちなみに上記の水受け堤防とは本来佐賀城を洪水から守るためのものだが実際のところ木ノ角地区を守るのに大変役に立った。

 

 最後に今後の日本の農業への展望についてお聞きした。

瀧さん談:「日本は外国から大量の食糧を輸入しているのに、国の政策は減反政策などの

ように農家に不利な政策ばかりである。私の息子も同じようにこのあたりは農家の跡取

りが少なくて、日本の農業の将来は暗いことばかりだ。」

 

以上のようなことを約2時間ほど瀧さんにお伺いして木ノ角地区の調査を終えた。



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