歩き・み・ふれる歴史学 現地調査レポート/佐賀市鍋島町/稲崎 <調査者> 臼井 三裕 浦川 明子 太田 敦子 <お話を伺った方> 池田 末雄 大正10年生 橋本 元秀 大正7年生 田中 豊 大正8年生 江口 房一 大正12年生 松鶴 日出雄 明治44年生 岸 稔 大正7年生 中原 厳 大正9年生 @しこ名 ・田 カネマチ、フナマチ、カマヘラ、北境(キタザキャー)、南境(ミナミザキャー) サクランシタ(大きな桜があったから)、マツモト、高取(タカトリ・・・お宮があるか ら。)、ソエ、ドイノウチ(土手、堤防のなかなので)、 大坪(オオツボ)・・・土手の面積が広いため。 印ニャク(インニャク)・・・お宮があるので。法勝庵(ホウショウアン) 花つくり(ハナツクリ)、八反画(ハッタンカク) 台帳にもっと大きな区分があるらしい。(一本杉ごもり、一本松ごもり) ・ホリ 稲崎堀(イナサキボイ)またはカンセイスイロホイ ・水路 ヨコテシイド ・井樋 高取井樋 A村の水利のあり方 農業用水は昔嘉瀬川のカワクチという出水口から単独で引水していたらしい。現在では北山ダムから取水している。昔、カワクチは稲崎(オギノ)の人たちが作ったので単独という扱いをしているが、下の村である東原やあまくさえにも水をやっていたらしく、共有していたともいえる。ゆえに、配分法などの水利慣行は稲崎が有利な立場であった。 水争いは干ばつのときに西の「くぼた」というところとしていた。稲崎が土をもって嘉瀬川に堤防を作ると、くぼたの人々が竹やりを持って壊しに来たという話があった。中原とも水争いがあったようで、深川の話と異なるところがあった。 「あお」はない。 井樋番は昔(30年前)は井樋1つあたり3000円。現在では市役所から7〜8万円もらえる。 ホリのゴミ取りは特に4月30日、または7月27、28日に稲崎の人たちがしていて、下の3部落(東原、あまくさえなど)からお金を取っていた。4月30日は用水をとるためのかわされえといって有名だそうだ。現在ゴミとりは市でやってくれている。 水対策について最近は特になかったが、2年前は11000ヘクタールが日割給水を必要としていた。番水(バンスイ)とは日割給水を管理することらしい。(稲崎では)犠牲田はなかった。もし30年前の出来事であったなら北山ダムもないので泥で堤防を作っていただろうといことだ。そして水争いにももちろんなっただろう。 B村の耕地 稲崎には乾田というのはない。かといってすべてが湿田というわけでもなく黒木のみが湿田であった。(黒木はさやがこえてなく、病気が多かった。)戦前で良い田は8.5〜9俵、悪い田は5〜6俵(黒木)戦前の肥料は配分肥料で、油かすや魚粉などを使用していた。 C雑談 近年農道面積が変わったし、また1反、2反といった小さな田んぼからもっと広い田んぼに変わった。しかし、まだ土地計画区域ではないので、集落は変わっていない。今後の日本農業への展望として、後継者問題の解決とともに、北島地区(となりまち)のように大型農機具を使った共同耕作を考えていらっしゃいました。また、お米でなくイチゴを作ろうという考えもあったようです。 |