【佐賀郡諸富町下大津地区】

歴史と異文化理解A

S1−17 944835 高野 秀一

S1−17 944872 三宅 周吾

 

 私たちは、諸富町下大津現地調査行った。

 当日は、雨が降っていて、あまり外に出ている人がいなくて困ったが、数少ない通りすがりの人たちに、この村で一番、昔の田中についてくわしい人を聞いて、その人の家を訪ね、話を聞かせてもらった。その人の名は、平川文二さん、大正3年生まれ、81才であった。

 まず、この村の田中のしこ名について聞いてみたが、なにぶん最近は全く用いていないので、数個忘れてしまっていた。(しこ名については地図に記入)次に田中だけでなく、しいどや、橋、ほり、道などについてなかったか聞いてみたが、下大津では、それらにしこ名はつけていなかったそうです。

 次に村の水利についてだが、下大津の北側を流れる佐賀江川から大堂井堰を通して、水を取り入れていたらしく、だいたい佐賀江川以南にある村々はそこから水を取り入れていた。水争いについても聞いてみたが、水争いは無かったようだ。

 平川さんによると、下大津の田中は、だいたいどこも良田で、圃場整備前では、反当10〜12俵取れたらしく、戦前化学肥料が入る前では反当8俵位だったそうです。そして戦前の肥料には、馬の堆肥、油かす、干鰯、しもごえ、などを使っていた。また、下大津では、湿田はなく、ほとんど麦のできる二毛作田だったらしい。

 

 平川さんも、昔は田中を持っておられて、日々農業を行っていたが佐賀県が5年前位にうち立てた都市計画に下大津も入り、下大津のほとんどの田中が今では新築の家へと変わってしまった。だから下大津では、今でも農家の方は4軒くらいしかなく、しかも世代が変わってしまっていて、なかなか昔の事について知っている人はいなくて、いろんな人に聞いてみると、下大津で、昔の事についてくわしい人は平川さんともう1人しかいなかったが、もう1人の人は話をしてもらえなかったので平川さんに昔の農業生活について聞いてみた。

 今の人たち、つまり自分たちの世代は、今の農業でもきついと言ってなかなか農業をしたがらないが、昔の農業と比べると今の農業は格段と安易になっている。平川さんの話だと、昔、下大津では馬に“まが”という物をひかせて、田を耕していたが、それでは1反耕すのに3日かかっていたらしいが、現代の耕運機を使うと、1日に5、6反は耕せるとのことです。

 さらに、1日何時から何時まで農作業を行っていたか聞いてみると、朝4時から、夜の7時まで働いていたそうです。もちろん農作業にほとんど休みもなく(もちろん正月、盆などには休みはあったが)、一年中田中に出て、働いていたそうです。しかし、戦前には週に一度午後から、農作業が休みという決まりがあったらしいが、戦後には消えたらしい。そんなに忙しかったら、全然遊べなかったのではと聞いてみると、まあ、だいたい遊ぶものが昔は無かったので、そう遊べるわけでもなかったが、祭りなどがあると、若者は祭りにくり出していって遊んでいたようです。祭りの話が出たので下大津で行われる祭りについて聞いてみたが、下大津では2月15日位に“ももて祭り”というのが催されるとのことです。この祭りも今では昔程盛大に行われなくなり、ちょっとお供えをするくらいだそうです。まず戦前までは“くんち”というのも行われていて、14年に1回くらい神代さんが来ていたらしいが、戦後これは消えてしまったそうです。

 

 平川さんは今の日本で、農業をしても、割に合わないので、後継者がいなくなり、その結果、その土地の農業を衰退してしまうとおっしゃられていた。普段、何気なくそのような事を聞いていたが、実際自分が下大津に行ってみて、その事は実感できた。



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