【佐賀郡諸富町橋津、徳富地区】

1年27組 1AG96060■ 梶原 匡弘

1年27組 1AG96066■ 川口 章

平成8年12月23日

 私の班は、諸富町の徳富地区と橋津地区を調査した。この町の東部には佐賀江川が流れている。現在、その川には、橋が多く作られ、堤防が築かれようとしている。大規模な圃場整備の結果、失ったものは「しこ名」だけではなかった。佐賀江川は岸辺に近づくほど、泥地になっている。昔は、この川の水が、洗濯や飲み水として利用されていたそうだ。このとき、泥を避ける足場として石をならべたものを「アラコ」という。また、今堤防が築かれようとしている所にもともと「松どい」というものがあったそうだ。これは松、はぜの木を植えて作った堤防である。この話を公民館で聞き、その後すぐ近くの法泉寺に向かった。住職の池田法月さん(T.8生)、法泉寺のすぐ裏に昔、教(京)の寺というお寺があったこと(今は、なくなり田んなかになっている)や、法泉寺周辺の田んなかのしこ名を教えてくれた。その後、檀家の農家さんを二人、紹介してくれた。

 井手松雄さん(68才)と小寺金二郎さん(66才)は橋津・徳富地区のしこ名の由来も教えてくれた。その由来の特徴はその田の様子がそのままでていることである。例えば、「八郎三右衛門」という名があるがここは「八反ガク」とも呼ばれていた。そのまま、田んなかが八反あったからである。(今は団地になっている。)このようなものは他に「三丁分(サンジョウブン)」ここも田んなかが三丁あったからである。また、田んなかに家が三軒あったので「三軒家」という名がついた所もある。「教(京)の寺」、「権現堂」についてはお寺、お堂の名前がそのままつけられ、大堂神社の前は「大堂馬場」と残っている。また「正広(マサヒロ)」と所はそこに住んでいた夫人の名前がつけられていた。現在このような昔のしこ名を知っている人は農家さんでも少ないが、その理由は、昔、農家さんの中には、佐賀江川を利用して、田んなかに来て別の所に住んでいた人も、結構いたらしいからである。その時、渡し船の波止場だった所を「田んなか渡し」というらしいが、これも今はもうなくなっている。大規模な圃場整備の結果、なくなったしこ名、そして、松どい、アラコ、田んなか渡し等を知る人は今はもうほとんどいなく、確実に減っていく。私達は少しでもそんな歴史の残した足跡を正確にたどり、残せたらいいなと思う。

諸富町

しこ名

田畑

小字橋津のうちに

マサヒロ、教ノ寺、三軒家、永住寺小路、大堂小路、大堂馬場、ナカミゾ、イナリ堂

小字徳富

壱本松、ホウコンサン、ナカミゾ、江越、御東、石田、村田、五本松、権現堂、ワカミヤシュウジ、ムカエシュウジ、八郎三石衛門、三丁分

ほか

小字橋津のうちに

カキ田津水門、松どい、田んなか渡し

小字徳富

チンダイ島、“石造りの御堂が昔あったという事実”

 



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