【佐賀郡諸富町東寺井、三重、上下地区】

火曜5限 歩き、み、きく歴史学 現地調査レポート

1AG95231■ 増田 三巌

1AG95265■ 百合野 秀朗

 

<聞取の方法>

行動の記録

     まず、予め手紙を出しておいた東寺井の伊東文雄さん宅を訪問した。(多少道に迷ったが、何とか約束の時間付近に着く。この辺りで雨が降る)

     伊東さんに話を聞く。しこ名については詳しくは聞けなかった。自分よりも今組合長をしている方の方が分かるだろうということで、@為重の緒形さんA石塚の中島さんB三重の福田さんを紹介してくださる。この三人と他の手紙を出した小林さんと志岐さんに話を聞ければ、この範囲内は全て分かるだろうということだった。

     3人の内、後の予定を考え、まずBの福田さんに連絡をとった。お昼どきにも関らず、快く調査に協力してくださった。雨は降っていたが、比較的安易に福田宅に到達する。しかし遠かったため、地図がぬれ、多少傷んだ。

     福田さんに話を聞く。昔の地図があったのかもしれないと探していただいたが、見つからず、もう区画整備後の番地を記したものしか残っておらず、帳簿を見ながら、思い出せる限りのしこ名を聞く。熱心に話していただいたため予定時間をオーバーし、小林さん宅に連絡を入れる。

     小林さんに話を聞く。詳しく話が聞けた。その他、食事、雑談などで時間ぎりぎりまで滞在し、バスに戻る。

     手紙を送った志岐さんは事故にあわれていて入院されていて、断りの手紙がとどいていた。伊東さん宅で紹介された他の2人の所には時間的に無理があり、行くことが出来なかった。また、平日に役所へ行くと、昔のしこ名を記した地図が残っているのではないかとおっしゃっていた。

 

     調査の内容・成果

<東寺井>…伊東文雄さん(83歳、大正元年生まれ)

     しこ名 ・茂左衛門…かつての持ち主の名らしい

      ・茂左衛門搦田…茂左衛門の搦田。そのままの意味。

      ・搦田…下水処理施設を作る計画があるらしい。

※あまり聞けなかったが、他の方を紹介していただいた。かつての田んぼの名はもう忘れてしまったといって、思い出すのがつらそうだったので、あまりしつこくは聞けなかった。

 

     水利について

・昔:筑後川から引いていた。これについては小林さん宅で、さらに詳しい話を聞く。

 ・今:筑後川大関が出来た後は川が塩水になったため、主に北茂安北山ダムなどの佐賀東部地方から引いている。

     現在、新しい水利システムが考案されており、同意を募っているらしいが、それなりの金額を出資せねばならないため大変らしい。

     水を上流から入れる、下流から入れるというとりきめは特にない。

 

     水飢饉のとき

・下うけダムから筑後川へ、特別に水を流してもらったらしい。加与町

・去年などは特に水不足にはならなかった。

・1944年のことは不明。わからないと言われた。

 

     現状とこれからの農業について

・4、5年前整備され、田の形も村の形も変わり、境界などは良く分からない。昔の取り決めが大まかだったせいもある。(茂左衛門・搦田はまだ整備されていない)

・全て乾田。湿田は無かったと言われた。

・稲はどこも同じく良く取れるが、冬の麦は北地区(諸富の方)が良く取れるようだ。

・専業農家は一軒しかない。兼業もへっているが、1.5反ぐらいの小さな田の所もまだやめていない。

・1〜2反ぐらいの田は専業農家の方に頼んでいる人も多い。

・しろかき、田植えは頼み、後の管理は自分でして、また刈入れを頼むというパターンも有り。(農作業用機械がないため)

 

<三重>…福田さん(生産組合長)

・しこ名 ・エゴ…江?意味は不明。

     ・蔵田(クランダ)…かつて本当に蔵があったらしい。

     ・十五…条里制のなごり?番地ではない。

     ・十六…〃

     ・二つ寺…そのまま。寺はあったらしい。

     ・上田

     ・西田

     ・一本松

     ・二本松

     ・三本松

     ・高橋…はっきりとした位置の特定できなかった。小林さんとも異なる。

     ・名字

     ・新町

     ・大官屋敷…かつてここに存在。そのため悪い言い方だが、と注意をしたうえで、昔この辺りの人は上流階級のような意識があり、回りを見下すような風潮もあったらしい、とおっしゃった。

     ・入江…かつて海の線はこれよりずっと北だったため、水が来ていたから?

     ・島田

     ・向諏訪(ムコウズワ)…  諏訪さんという方がかつて東寺井にいた。

     ・堂後(ドウノシロ)

     ・諏訪

     ・大曲…旧道沿い       上下と重複

     ・小曲…〃

     ・カヤワラ

     ・四丁田

     ・両方堀…かつて川が併流。

     ・梅の木堀

     ※比較的新しい名しか残っていなかった。

 

・その他 予定時間オーバーのため、あまり聞けなかった。

 

<上下>…小林さん(昭和9年生) 話好きな方だった。

・しこ名 ・ヨツゲー…由来不明

     ・サキ(ケ)マチ…〃

     ・オギドン角…〃

     ・為重田…人名。

     ・柳の内

     ・シンボイ(新堀?)

・ハシヤガイ…ヤガイは「上がる」のなまったものではなかとのこと。かつては高い土地だった。

     ・五反角

     ・上下田…地名?

     ・ガタ…干潟のガタ?かつて低地だった。湿田だった可能性有。

     ・ガネババ…不明

     ・ベンジョサン…まさかトイレではないだろうとのこと。

     ・裏田

     ・ギシツグイ…不明

     ・コウゴウ…〃

     ・二反田

     ・免田…※となり村では、免田とは村共有の土地で、交代で村人が米を作り、それを村人が米を作り、それを村人にふるまうしきたりがあったらしいが、ここでは無し。

     ・北小路

     ・南〃

     ・ヤボ天神…不明

     ・舟橋…※事前に思い出して書きとめていただいた紙とは位置が異なる。

     ・向かいの内

     ・オイセサン

     ・ジンズインサン…〜院という寺があったのではないかとのこと。

     ・コジヤサンの角

 

・水利について

      ・搦田あたりは満潮になる直前(満潮時を10とすると、7〜8、9までらしい)だけ真水がくるのでその時、それを取っていた。時間にして40分くらい。水の色が違うらしい。少雨の時などは、満潮がたとえ真夜中であっても3〜4人の組を作り、交替で水を入れに行っていたらしい。

  ※また、この頃はクリークの掃除が必要。年に一度、大規模に川のヨシを取りはらう。(これを乾燥させて貯蔵。まき代わりに。)

 ・近年の水不足について

   田の水は一旦入れて落とすが、川に流さずまたくみ上げるため無駄が無く、(回転式)被害は最小限に抑えられた。

 ・ここも同じく、新しい水利システムが導入されようとしている。―平成10数年完成予定。

 ・1つの堀で40丁ぐらいの水をまかなう。

 

・現状とこれからの農業について

 ・兼業農家9割以上。専業は数人。

 ・これからは専業でいくには、ハウスでもやらない限りつらいとおっしゃっていた。(上下にハウスはない)

 ・裏作には麦。よく取れる。減反としてではなく、裏作に玉ネギを作る裏作も有り。湿田だからという訳ではない。

 ・土地は少数の専業農家に集中していく傾向にある。

 

・その他雑談など

 ・しこ名にはかつての身分制の名ごりがあるらしい。(Ex.代官屋敷など)

 ・上下はかつて城下町で、城下がなまって上下になったという説有り。(昔の人曰く)しかし、それらしい跡無し。

 ・為重田付近にはかつて、新北神社の下の宮があったらしい。現在はあとかたもなく、木工所と田んぼになっている。近くにガタがあり、ドジョウつりをしていたらしい。ドジョウがたくさんいたのならやはり湿田だろうか?とても楽しそうに話してくださった。

 ・オイセサン(田の名前)の所にはかつて地蔵があり、道を作る際、小林さん宅前に移された。年一回(天皇誕生日)にみんなでオイセサンの所に集まり、オコモリ(みんなで寄り合って、こもって食事をする。子供も皆参加)をする。このとき、男の子は竹で空気でっぽうを作り、女の子はかくれんぼをしていたらしい。

 ・まだいたる所に佐賀の乱の時の塚が残っている。これらは区画整備の際もそのまま残されたらしい。

 ・農作業には、牛ではなく馬を利用していたらしい。慣らし、仕事を覚えさせるのは難しいが、その分良く働くそうだ。一度、作業中に馬が逃げ帰ったこともあったそうだ。冬期は馬の運動のために、まるで西部劇のように乗馬をしていたそうだ。

 ・14日は名物もぐら打ちの日だった。

とても楽しそうに昔話をしてくださった。

 

<全体としての感想>

 まずマニュアルには若い人には聞いても分からないと思うので、古老に聞くとよいと書いてあったが古老ももうあまり覚えていないし、あいまいな感じの所もあった。たまたま僕らの行った地区が区画整理されていただけなのかもしれないが少し時期が遅かったかもしれないと感じた。その中でも小林さんには特にお世話になりました。あるだけの知識を全てお話しになってくださった感じです。しかし逆にほとんど覚えていらっしゃらない方もおられて僕らは今回指定外の地区である三重町にまで行ってきました。天候も少しぐずっていたせいもあって他にも指定外の所を予定していたのですが妨げられてしまったという形です。それから少し困ってしまった点としては以外に古老達の佐賀弁の解読に時間がかかってしまったということでしょうか…。いろいろ悪条件の重なった佐賀調査でしたが佐賀の人たちの心のぬくもりを感じることできた一日でもありました。

 

追加提出物

 小林さん宅でいろいろしこ名などのメモをかいて頂いたので地図と一緒に提出します。何かのお役に立てればいいのですけど…。

 

・佐賀弁にも“り”の発音はあると思う。り音が文末などにあって、省いても問題のない時にだけ“い”になるのだと思う。“り”から始まる語はちゃんと発音する。



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