【佐賀郡諸富町大堂地区】 歩きみきく歴史学 金5限 1DD95010■ 江上 圭 1DD95053■ 安富 裕子 お話しをして下さった方 井手 明さん 昭和5年生まれ65歳 しこ名 今はほとんど残っておらず、幼少の頃呼んでいた名も覚えていない。しこ名というのは圃場整備前にあった。 ・地図の緑の線で囲った所のしこ名 田@…じぞうさん ○印のところにじぞうがあったから。 A…ぐんべーだ B…きば(木場) 橋C…じんじん橋 ・小路ごとの名前―大堂村では、小路ごと、部落ごとに名前がついており、いくつか教えていただいた。 @ばば小路←大堂神社から由来した。(10軒ほどあった。) A永仁寺古賀小路 B田中小路 ・部落の名前 C大堂渡端 Dいねずみ(亥戌角)←井手さん宅の近郊で、100年くらい前この辺りに住んでいた大金持ちのことを「いねずみ大臣」と呼んでいたから。 E三軒屋←昔、3軒家が並んでいたから。 村の水利のあり方 大堂村は淡水を使っている村。 方法)稲を作っている時期。 5〜6時間くらい 佐賀江川から。 専属にポンプ場に人をやとっている。…井上さんも家の近くのポンプ場の管理を頼まれて、年間1万5千円くらいでしているらしい。 昔は、ポンプ場の水は井樋番が口に含んで真水かどうか確かめて人力であげていたが、今は、塩分検定器がついているらしい。 ※2、3年前の水不足の時の対策 ・クリークに貯めてあるのを、1日に2時間だけ給水した。 ・国営、県営水路から、有明海の干満差を見て、人力でポンプアップした。 ・年に2〜3回だけ、夜明ダム(九州電力発電用)などにお願いして、放流してもらう。 ・大堂村の西方の千代田というところはクリークがすごく大きいうえ、国営水路の水が下がってくるところであったため、干ばつ知らずだったので、そこに水をくみに行った。 ・大堂村は小さなポンプを使っていたため、干上がってしまい、コイ、フナはほとんど死んでしまった。 ・犠牲田の設定としては、水不足に強い大豆や、イチゴ、メロンetcを育てたところもあった。 ・最近、塩分の多い水がすぐにあがってきて、真水が少ない。 理由・昔は砂がたくさん川底etcにたまっていて、(諸富橋付近)塩水はあがってこなかったが、工事や埋め立てでその砂が減ってしまったため。 ・筑後大ぜきで水を上流でとってしまって、下流まで流れてこないため。 村の範囲 ・地図で朱色で囲ったところが大堂村。 ・入会山はないが昔は隠し田という村の共有田があった。 ・地図のオレンジ斜線で囲んだ所で整備の時史跡(居住跡、人骨)が発掘した。昔はこの辺は原野だった。 ・昔、佐賀江川を通って、商人がすみ、木炭、いわしをほしたもの(肥料)、なたね油をもってきて、舟の渡端として使用していたところが「大堂渡端」らしい。近くに「木場」という田があるので、たぶん木材も搬入していたのだろうということだ。 ・村は有明海が埋まってできたので歴史は浅く、村自体はあまり変わらず、村から出ていく人と他から入ってくる人の入れかわりも同じくらいで50〜55戸数くらいらしい。 その他 ・佐賀には良田、悪田の区別はあまりない。 ・地図のピンク斜線で囲んだ所が井上さん所有の田らしい。 ・肥料は戦前でもだいたい会社から買う化学肥料で、他に堆肥や生わらなども使った。 ・昔は「女遊び、酒、ばくち」で田をつぶす家もあったため、母親から、子供の頃、「女遊びと酒とばくちはするな。」と言われていたらしい。 将来の展望 最近は農業のうつりかわりが非常に早く、今はまだ生存競争は激しくないが、今のペースのままだと、50〜60ちょうを、2〜3人で経営するという、「規模拡大」という方法しかないのではないだろうか。後、生産コストは高くなるが、人気があり、需要のふえてきているハウス、園芸etcで、生き残るという方法もあるが…。 今は農業にとっては過渡期であり、国も自分たち農家もこうすれば生き残れるという方針はまだできていなくて手探り状態である。大堂村でも生存競争を話しあってはいるがまだ結論を出しきらない。自分1人では何もできないから、やはり組合が中心となる。 後5〜6年もすれば、結論はでているだろう。 感想 江上:広大な自然の中で、農家の方々のお話しを聞けて、よい勉強になったと思う。 安富:雨はすごく降るし、家は遠いしで、かなりハードであったが、村の人々や井上さんはすごく親切で、心が和んだ。 農家の人に話を聞くのは初めてで、いろいろなことが分かり勉強になった。 ※加与町の方は、2、3軒訪問してみたが、留守宅が多く、大堂村のみになりました。 |