【三養基郡三根町続命院地区】

続命院での現地調査レポート

松本、松井、宮前

 

 僕たちは車で生産組合長さんのもとへ行ったのだが、先日送った手紙は生産組合長さんの母親が読んだだけでそのままになっていて、組合長さんは僕たちが訪れることすらご存じではなかったようだ。それで定食屋さんや大きな家やらを訪ねて何とか二人の老人と接触することが出来た。

 石橋悟さん(明治41年生まれ。87)

 槻木(つげき)勝次さん(明治40年生まれ。88)

  この二人の意見を総合することによって地図を作成した。(地図省略)

 

「田ん中」のしこ名は以下の通り。

 うらだ

 ひらき

 まえだ

 やはたまち

 ごうまち

 しょうやだ

 しのつぼ

 くのつぼ

 かげだ

 ほっけ

 じゅうのつぼ

 はえづめ

 おおしま

 じう

 かみのはち

 さなつぼ

 れんぼ

 けんぎゅう

 きたのまえ

 よりゅうと 合計20

 

 話によると「しいど」(水路)には固有の名前はないらしく、例えば「うらだいのしいど」というように呼んでいたらしい。「ほり」(クリーク)、「いび」(水門)も同様に固有の名前はないということである。

 

 水田への水は筑後川につながる井柳川から引き出されている。その用水は続命院全体に供給されており、昔から水争いは全く起きていないということである。

 この地域では満潮時に海水が逆流してくるため「いび」であらかじめ水を蓄えておく。その期間は510日ごろから1020日ごろまで。蓄えておいた水を水田に流し込むのは1日、15日である。

 井樋番は一人で一年交交代であり、その手当は村の水利組合から15,000円ほど出るらしい。

 水田のゴミとりは年に2回で、そのゴミを肥料にすることはない。また、昨年の干魃による水田への影響は全くなかったという。

 

 村の水田はあちらこちらに段差があり、それによって湿田や乾田が入り交じっていたようである。乾田では裏作に麦を作っていた。

 当時米が何俵穫れたか、どんな肥料を使っていたかについては確かめることができなかった。

 

 村の農業の変化を聞いてみると、やはり機械利用組合とかができたらしく、機械化が進んでいるようだ。また、これからの農業は外国の圧力に負けて衰退していくだろうと不安をもらしていた。

 

 最後になるが、今日はなかなか「田ん中のしこ名」を知っている年配の方を見つけるのに苦労した。というのも「い草」の刈り入れ時らしく、村のほとんどの人が畑に出ていたのである。いろいろと家をまわってしこ名を知っていそうな人に電話をしてもらったりしと迷惑をかけてしまった。それでも親切に接してくれた村の人たちには感謝している。



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