【三養基郡三根町寄人、市武、東津地区】

歴史と異文化理解Aレポート

小江敏明、衛本圭司、岡田幸樹、川原聡、岡祐二

 

 内川文禄さんを訪問したが、内川さんは寄人の野中さんの方が詳しいということで事前に手紙を野口さんに渡して下さっていた。そして我々は野中さん宅を訪問した。

 

 しこ名

  しこ名にはよく、一の角、二の角とか、三の坪、四の坪と言ったそうだが、それは寄人の西の方の田んぼを呼ぶときに使ったそうで、寄人、新村のしこ名はそれぞれにあるらしい。

  そして、そこの息子さんの奥さんが親切にこの寄人が属する三根町の分厚い本を持ってきて、親切に説明して下さった。

  そもそも三根町は三根西、三根東と分けて呼んでいるようで、我々の訪問した寄人は三根西である。三根西と三川地区の合併などで三根町のようである。そして大字3つ、それぞれに何個かの集落、つまり字があるという。

 

寄人……新村、直代、大坂間、和泉、南里ヶ里

     続命院→地図には「命院」と書かれているが、奥さんの話では「続」が付くそうである。

 寄人は地図では字は小さいが、なぜか大字の名前になっている。野中さんもなぜだか分からないという。そもそも寄人には三つしか家はなかったが、兄弟などが分家して現在のようになっているという。

 

市武……市武、六田(ろくた)、江見、新町

 寄人の目の前田のしこ名は上田(じょうた)というそうだが、市武の人は上田とかいて「かいた」と言うらしい。因みに上田は田んぼでも良い田を指して言うらしい。

 

東津……東津、松枝、向島

 以上3つの大字、13の字かに分かれている。

 あと三根東は天建寺、西島、坂口の3つの大字があるらしい。

 

野中さんのおじいちゃんの話

     筑後川から水を引くため、上流の方が水を引きすぎると下流に水が行き届きにくくなるため、上流部と下流部との間に水争いがあったそうです。

     去年は水不足のため筑後川の水位が下がり、その分有明海からの水が逆流して来て、その塩分がまじった水をそのまま筑後川から引くので、塩害がひどかったそうです。

     圃場整備のために一反につき3(9)の土地を国に持って行かれたそうです。また、圃場整備の費用のために国40%、県35%、町25%そして後の残り10%分を農村の個人が年間一反につき15,000円という形で取られたそうです。

     昔は舟で筑後川を渡っていた。その際に転覆して6人死亡したのがきっかけとなって天建寺橋が架けられた。それは昭和25213日のことで6人死亡。その中の小学5年生の森さんは、今日訪問した野中さんの奥さん(息子さん)のおばさんだったそうです。

     昭和28年筑後川で大洪水がおきたとき、辺りは胸の辺りまで浸かるほどで移動は45日間ボートだったという。野中さん宅は今でこそ築10年ぐらいのピカピカであるが、その当時は床上浸水して「この床の1020cm位水が浸かった」そうである。またその当時は、筑後川の水が減るのを待つしか無く、45日してやっと水が引いたそうである。そのために国や県の政策で水門にポンプを作り水害対策をしたという。

     昔の農作業は戦後10年ぐらいまでは馬を使っていたらしい。そして天日で麦、米を干していた。昔は麦も作っていたとか。

     この辺の区画整備、上の15,000円は土地を持っている人間だけがお金を払わされているという。そこらへんに住んでいて農作業に関係のない人々は何もしていないそうだ。つまり、道路が舗装されたり車が通りやすくなったのは農作業を行っている人々の力だけだという。野中さんは別に悔しがってはいなかったが。

     やはり4年前の台風18号はさすがに参ったという。今はポンプもあるし一番怖いのは台風だという。

     寄人の米はヒノヒカリ。はなつくしも北の方で作っているとか。



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