【三養基郡三根町東分地区】

歴史と異文化理解Aレポート

S1-31 264湯之上、269吉松

 

田ん中のしこ名について

 僕たちは三根町の日か自分の古村定さん宅を訪ねました。古村さんは昭和9年生まれで退職なさった後、東分の生産組合長になられたとのことです。

 東分は明治期に、一本松、二本松、三本松に分けられ、丹南の呼び名はその大きさによって機械的には「いったんじま」「いったんふたせ」などと呼ばれているそうです。ここでしこ名を尋ねたところ、忘れてしまったとおっしゃったのですが、覚えておられるだけ教えて頂きました。

 

1 うしろだ

 地区共同で苗をつくる田をこう呼びます。

 一本松と二本松地区に一つずつあるそうです。「うしろだ」の周りには煉瓦を積んで高くして、二本松の「うしろだ」には「みずぐるま」を付けて水の調節をしているそうです。

2 やせだ、よせだ

 やせだ、よせだとは一反に満たない0.8反や0.4反の田をその広さによって呼ぶそうです。

3 にたんじぇまち

 これも2反という広さを指してこう呼んでいるそうです。

4 ひらち

 通称「原野」と呼ばれていて田んぼと畑の中間ぐらいの土地で、裏作をしているとのことでした。

5 おみやのうら

 南の八俣八幡宮の裏にあるからだそうです。

6 錠井樋の田ん中

 これも錠井樋のすぐ側にあるからだそうです。

7 前田 めいだ

 これは西分地区の田だけども古村さんの家の前にあるからだそうです。

以上、もう一人の古村さん(688ヶ月)からも同様のことしか教えてもらえず、他のお年寄りを紹介してくれる旨お頼み申し上げたのですが、「他の人は知らないだろう」とのことで、仕方なくバスで帰ることにしました。

 田ん中のしこ名がたった7つしか分からなかったのは、自分たちとしてはとても非常にくやしかった。

一反でとれる米

・約10俵。去年は11俵。

・「ササニシキ」などのうまい米は7俵ぐらいしかとれないらしい。悪田、良田の区別はない。

 

戦前は堆肥を使用していた。

 

村の水利のあり方

 村の水利のあり方についてだが、僕たちが調査した東分では、昨年の水不足での時でも水は十分に足りていたという。そのおかげで昨年は豊作だったという。しかし、なぜ水不足にならなかったのかというと、まずほいが村中にはりめぐらされていることだ。そのほいは、大きく3つに分けると地図中にも記してあるが、東分から「外ぼい」「中ぼい」「内ぼい」とある。この3つのほいから田ん中にそったほいへ水が入っている。

 ここで、田ん中に沿ったほいのしこ名は、そのほいの横の田をもっている人が、そのほいを所有し、また、しこ名もつけるということであった。例えば「おみやうら」の田ん中ならば、おみやうらのほいとなるわけである。

しかし、ここ東分では水が多すぎることから、大変な水害を被ったと聞きました。昭和28年の625日〜28(筑後川三大洪水の一つ)。これが原因で筑後川に12kmにもわたる大堤防をたてたと聞きました。そして、それらを行った人物が茂安という人だったから、今、北茂安という町ができたのだとも聞きました。

さて、本題に入りますが、先ず、この周辺の水の調節をしているところは錠井樋と、江口排水機と呼ばれるところである。錠井樋は南の集落の土居内と共有している。江口排水機は単独で使用していて、ポンプによって水を取り入れます。

この次に各田ん中に水を取り入れるわけですが下図を見て下さい。(図省略)この図のように、手前の方から順々に水を入れるわけです。だから一番端の方の人の田ん中にはなかなか水が入りません。だから水を隣の田ん中から奪ったり、あと前の人の田ん中に水が入らないようにしたりなど(図省略)

また、先ほど、昔の集落と共有している錠井樋ですが、ここには昔から井樋番がいました。その制度は毎年23人の者が撰ばれて一年間働くと、また次の井樋番へというふうになっていました。要するに、順番にあたっていくわけです。

井樋番の働く内容は大きく分けて2つあります。第一に水の調節です。だいたい6月頃から水を引き始めて、10月までという期間、田ん中の水を調節する役目があります。

次にもう一つ、他の集落から水をとられないようにするための監視役です。でも集落と言いましたが、これは昔の話で、今では個人的にやっている人が少しだけいるというか、いた、と聞きました。でもその反対になるようなのですが、「汐入会」という飲み会があり、仲はいいそうです。

それから井樋番には村の人全員から1年につき35千円の手当があったそうです。古村さんが言うには「安いもんだよ」。

水の取り入れ方

 水の取り入れ方(筑後川から)は、汐が満潮になる頃、堰を開けていっぱい取り込み、汐が干潮のときは堰を閉じていた。つまり、汐の満ち引きを利用していました。

 *汐の香りがしていたという。

 昔は水路の中の水を全部どかして、水路の中の泥を取り出してそれを肥料として田ん中に入れていたと言います。また、水を全部抜いたときに魚が沢山残っているので、それを取って焼いて食べたと言います。そういったほいのことをしこ名で、「いおぼい」「もやいぼい」とか言っていたそうです。

 

現在の水利の問題

 地図中の水利の問題は水が多すぎることであ。地図中「町が管理している」と書かれた部分の丘を高くしようとしていることである。そんなことがなぜ問題なのかというと、古村さんの話では東分の北の村から水が流れてきていたのが来なくなり、北の村では水が溜まり過ぎて水害が起こりやすくなるというのである。

 

雑談

Q 今後の日本の農業への展望

A アメリカが輸入自由化を迫ってきているが、そんなことをしたら絶対に日本農業に未来はない。規模が桁違いだ。日本政府は30反を一農家でするような計画を立てているらしいが、残された農民はどうなるのか? もし輸入自由化すると米だけは自由化してはいけない。そうなると農家は自分の食べる分だけ作るようにしていくだろう。

 農家は日本国の方針に従うしかないのだが……。あと、一番深刻なのは跡取り問題だ。みんな若い者は町に出て行ってしまう。

 

Q 大規模化には機械化も必要ですね。

A 確かに機械化は大事だ。しかし、大型機械はべらぼうに値段が高く、ほとんどのもうけは減価償却費等にとられるし、10年もしたら、買い換えなくてはならなくなる。だから農民のもうけはほとんど0なのだよ、とのことだった。



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