【三養基郡三根町田中地区】

歴史と異文化理解Aレポート

1AG95221 古田健一

1AG95228 牧迫重信

 

  私たちの調査した田中地区は佐賀県の平野部地帯にあり、筑後川が近くを流れるクリーク地帯である。

 私たちが田中地区に言ったとき、周りには水田が数多くあったけれども、どの水田も昔ながらの小さくくねくねした水田の面影はなく、きちきちと角張っていた。これは圃場整備がもたらした結果である。そのため平川さん宅で説明を受けたとき、しこ名が付いていた頃の水田の位置が違っていたので別紙に書いておきます。(別紙省略)

 

圃場整備について

 圃場整備は昭和63年から開始され、大型機械を導入するために道路、水路を拡張することを目的として、1丁あたり7%の土地を削ることで進められてきた。そして、4年間にわたり圃場整備が行われた結果、元々32丁あった水田は30丁になった。

 圃場整備が進められるにつれ、しこ名も消滅していった。従って現在ではしこ名で田を呼ぶことはないそうである。

 

村の水利と水利慣行について

 村では上峰地区からながれてくる水と水路にたまる雨水に頼っている。そのため上峰地区からながれてくる水の境界との井樋を閉じる時期について話し合い、またそれを破ったことについての口論などがしばしばあったそうである。しかし、田中地区では淡水灌漑が発達しており、今まで水不足に悩むことはなかったそうである。そのため、去年の大干魃にも困らなかったのである。

その他、田中地区の中であるが、田島地区所有の水田(例:ゴク土井)では、水を使用するので、その代金をもらうという習慣がある。

 

淡水(アオ)灌漑について

 現在圃場整備で広い水路と動力灌漑が完備し、農業用水の確保には心配ないが、これまで農家の水田作業−稲作にとって、灌漑用水ほど頭の痛い問題はなかったそうである。

 農業用水は集落の中を縦横に走るクリークが、川の上流から流れこんでくる水をためて、貯水池の役目を果たしてくれたものであるが、しかし、雨の少ない年や農作業のなかで「しろかき」の前後にはどうしてもその需要をまかなうことが難しいので、川の上流から流れてきた真水が、有明海の潮の干満によって、川の下流から押し上げられる淡水(アオ)の補水が必要となるそうである。

 つまり、川の満潮時や川筋に設けられた井樋の水門を開いて堀(流れ堀)に取り入れ、その堀に連なるクリークの水位が上がったところで、水門を閉じ、その水を灌漑用水として利用するものである。

 井樋の開閉は通常、水利組合で管理されているが、緊急を要するときは、全農家輪番で公役(水当番)にあたり、ときには深夜に及ぶこともあるそうである。

 

村の耕地

 村には特別に多く米がとれるような水田はなく、どの水田も均等に量がとれたそうである。但し、別紙の地図にあるように、切通川が大雨で氾濫することにより、肥沃な砂地が流れ込み、セイサツと土井東ではおいしい米がとれたそうである。

 戦前の肥料は家畜の堆肥が主で、その外に化学肥料を使っていたそうである。水路の底に堆積した腐葉土は堆肥と混ぜたり、またそれ自体が肥料として使われたりしていたが、さほど効用が高くなく、所有権の争いはなかったそうである。

 

田中地区における現在の農業と将来の展望と、日本の農業について

 村では圃場整備が進んだことにより、昔よりも格段に効率が上がったのであるが、村全体の水田の数が少なく、稲作のみで生計をたてるのは困難である。平川さんの場合兼業農家であるが、会社と農業との兼ね合いが難しいそうである。加えて減反をしなくてはならないなどの問題が生じている。

 平川さんの話では、これからの日本の農業は外国の安い米と対抗していかなければならないが、自分たちだけではどうすることもできない問題も多く、将来に向けて農業を続けていくことということに不安を感じるというのが現状だそうである。

 



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