【三養基郡三根町坂口地区】

歴史と異文化理解Aレポート

1AG95005 足立朝穂

1AG95013 安楽康宏

 

  私たちは三根町坂口区を調査しました。事前に手紙を送っていた生産組合長の江島勇さんが当日用があり、ほとんど家にえられないということで、昔のことに詳しい松永輝二さんを紹介してくれました。79日は松永輝二さんのお宅にお邪魔しました。松永さんには九州大学の大学院に行っているお孫さんがおられるので、九大生の私たちに親近感をもっているようでした。

 

1 しこ名

@田ん中

 水門(すいもん)

 開平(かいたい)

 なかはま

 でえら(これはこがとも言うそうです。)

 おおはま

 ながた

 ひらき

 がた

 柳原(やなぎはら)

 うらだ

 よしわら

 観音高良(かんのんごうら)

 これらのしこ名を教えてもらいました。この中で水門というしこ名は、昔からこの場所に水門(「しもだの水門」と呼んでいるそうです)があることから付けられたと言うことです。

 観音高良というしこ名は、この国有地である畑のものです。観音高良というしこ名の観音は昔この辺りに観音様を祀っていたところから来ているそうです。観音高良の高良は坂口区の近くにある福岡県久留米市の高良山から来ているそうです。

 なお、地図の青い線は水路ではなくしこ名の表す区域の境界線です。

 調査する前は、しこ名というのはもう少し小さな区切りで決まっていると思っていたので、このように大まかな場所を表しているということを知って驚きました。坂口区は小さい区なので、しこ名も少ないようでした。

 

A堀

 現在の坂口区には堀は全く残っていないけれど、昔はたくさんあって、坂口区の3分の1位の土地は堀だったそうです。しこ名は特にないということでした。

 

B水路

 耕地整理をする前は田んぼの一つ一つが小さくて、その一つ一つの田んぼの周りに網のように走っていたそうです。しこ名はないようでした。

 

C橋

 昔、坂口には橋がなく、筑後川の坂口−浜田間に渡し船があったそうです。これは単に「坂口の渡し」と呼ばれていたそうです。しかし、昭和20年代後半に渡し船の事故があったため、その橋ができると共に、坂口の渡しはなくなったそうです。

 

D井樋

 聞いてみたのですが、井樋の有無、しこ名については分かりませんでした。

 

2 村の水利のあり方

 坂口区の水田の水は筑後川から、それぞれの田の所有者が筑後川から灌水機で汲み上げているそうです。筑後川の水位が低くなると水を汲み上げることができなくなるので、中浜井堰を作り水位をあげているそうです。現在は福岡県の方から水を送ってくるという計画があるそうですが、まだ実行はそれていないので、昔ながらの灌水機を使って筑後川から水を汲むという方法をとっているそうです。

 

・非灌漑時期のゴミとり

 ゴミとりのことはゴミあげと呼んでいるようです。昔は田の近くにある堀は、その田の所有者のもので、その堀のゴミもまたその人が所有していたそうです。肥料に使って余ったゴミは他の人に配分していたそうです。また、現在は堀は残っていないけれど、田の整備をした時、田の広さには堀を持っていたかどうかが左右したそうです。

 

・去年の水対策

 坂口区は周りを水に囲まれているため、渇水はそれほど深刻ではなかったようです。といっても去年はイチゴ、アスパラガスはとれなかったそうです。松永さんは「(渇水の時は)何もしてない。」とおっしゃっていましたが、それはつまり、水対策がそれほど必要に迫られていないということを表していると思います。去年は農業用水より家庭用水に困ったそうです。また、川の水位が減ると海水が逆流し、塩害があるそうです。其時は、県が援助してくれたそうです。

 坂口区では渇水よりも洪水が問題だそうです。今年の梅雨も田が水に浸かってしまったそうです。

 

3 村の範囲

 昔は筑後川は坂口の東を蛇行しているほうだけで、現在のまっすぐな筑後川の所も坂口区の土地だったそうです。しかし、筑後川をまっすぐ通したので筑後川をはさんで「水路」がひとり取り残されているのだそうです。

 

4 村の耕地

 坂口区の田はすべて裏作が可能のようです。良い田では最高8俵とれたそうです。戦前は貧しかったので、安い大豆かすの肥料を使っていたそうです。外には地力回復のために大豆を植えたりしているそうです。

 

5 村の展望

 坂口区では後継者のことが一番の問題だそうです。松永さんの家の近くの人も後継者がいないので田を売ろうと思っても、いくら安くしても売れなくて困っている人がいるそうです。松永さんは農協がすべて農作業を請け負って欲しいとおっしゃっていました。

 私たちが松永さんの家を探す時に尋ねた農作業をしていた人も、他の地域から坂口に農作業を手伝いに来た人だったので、人手不足は深刻なのだということを感じました。

 

松永輝二さんは大正8年生まれだそうです。



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