【三養基郡三根町西分地区】 歴史と異文化理解Aレポート S1-31 松尾、望月 調査で分かった田んぼのしこ名 協力者 地元の高柳さん、原野さん、江口さん ・苗代田 ここは土地が高いので、洪水のときも水が来ないので、みんなで苗を植えていたので「苗代田」と言うそうである。 ・乾 まず北西のことを「いにいずみ」と呼び、それがなまって「いぬい」と呼ぶようになった。 ・横枕 ・がんてんじん 「カニ天神」と呼んでいたものが鈍って、「がんてんじん」になった。 ・宮後 みやうしろ ・北畑 ・中宮 ・たち ・くまやしき ・出店 「でみしぇ」と発音していた。 ・寺内 ・大門 ・木の森 以上 昔からの集落の呼び名 ・苗代田 ・茶屋 ・新浄寺 ・南しゅうち 以上 古い家の名前(主に武士だった所に名前が付いている) ・乾やしき ・北やしき ・もとやしき ・ばんでいやしき ・くまやしき 以上 その他 ・銀杏橋 橋を架けるとき、そばに大きな銀杏の木があったので、この名前が付いた。因みに地元では「ぎなんばし」と呼んでいた。 ・大門橋 ・光浄寺境内 光浄寺という寺があり、その周辺の地域を「光浄寺境内」と呼ぶそうである。 西分の水利のあり方(語り手 地元の高柳さん、江口さん) 田にはクリークから水を引いている。その際、「あお」と呼ばれる方法でクリークの水を確保している。 「あお」とは、海が満潮になるときに筑後川の水が逆流してくるので、その際、井堰と呼ばれる堰を使って水を確保する。この結果、井堰の高さだけ水が残る。 また、水を取り入れる時期は6〜9月の大潮元皓の日に取り入れるそうである。その際、クリークの水は水深は最大で3m80cmに及ぶこともあるそうだ。 その他クリークに関して教えて頂いたこと。 @ この西分においてクリークが異常と思えるほど多いのは外敵が攻めにくいようにしたためだそうである。 A クリークには必ずどこかで切れ目があるように作られているので、橋はほとんど必要なかったそうである。生活が安定してきてから橋を建設し、その際板で作ったから「板橋」、石を積み上げて作ったから「石橋」、そばに銀杏の木があったから「銀杏橋(ぎなんばし)」と言った単純な名前がつけられたそうだ。 B 昔は田の肥料にクリークの底にたまった泥を使用していたそうである。その作業を欠席した人はその分だけ区役を払っていたそうである。 C クリークの両側に柳を植えて地盤が崩れるのを防いだそうである。柳は根付くし、根が強いので地盤が崩れにくくなる。 D 「あお」を利用する際、上流のクリークほど淡水の純度が高くなる。塩分濃度が下がるため、おいしい米がとれるそうだ。 E 最近は水利を司る水利組合をつくっているそうである。「いぜき」と「いぜき」の間には必ず水利組合があるそうだ。 西分の稲作を中心とした農業(語り手 地元の高柳さん、江口さん) 西分の稲作の特徴としてはクリークを利用しているため、旱魃の時も塩分が少し入ってくる程度で影響は少なく、旱魃に強いそうだ。逆に水稲は水がよくきれたほうがよいので、日照りの時には米がうまくなるそうだ。 裏作 以前、裏作は麦に限られていたが、28年前からはい草も行うようになったそうだ。その他、イチゴ、アスパラガス、トマト(桃太郎)を作っているそうだ。 収穫 戦前は10a当たり5〜7俵で、圃場整備、肥料、除草剤ができてからは8俵。そして昭和30年ごろには10a当たりの収穫は12俵に達し日本一となったそうだ。 また、米、麦では利益が一反当たり12万円にしかならないのでほとんど兼業農家になってしまった。 西分では県と国の補助が55%を占めており、田んぼの売買が勝手にできないため、田んぼはほとんど動いていない。 集落 集落同士は、昔はあまり仲がよくなかったそうだ。それは集落同士の対抗意識が強く、仲間意識の強さの表れだと言う。日本人特有の島国根性ともおっしゃっていた。そのため、わざと外の集落を避けて通ることもあったという。 祭り 祭りは神社、寺、おじぞうさんに因んだ祭りがあり、それらがある所には必ずそれに因んだ祭りがあったそうだ。 |