【三養基郡三根町持丸地区】 歴史と異文化理解Aレポート 1AG95245■ 宮崎麻里子 1AG95255■ 山口園子 今回調べることのできたしこ名は次のものです。 <田んぼ> ・ つうるめん(通路面カ通路免?) ・ やつえー(八つ家、八つ江?) ・ ほいがしら(堀頭) ・ やまんなか(山ん中) ・ 観音屋敷 ・ かねびらき(鐘開き) ・ じゅうげん ・ きゃーつぐろ ・ ひごだ ・ ちやのき ・ はすのわ ・ しんがい(新開) ・ ずんぐい ・ ろくただ(六反田) ・ 野田 ・ ひゅうたん ・ 二ノ上 ・ 井手口 ・ はしさき(橋先) ・ ひらかく(平角) ・ のうえのうち(納江のうち) ・ 十五さん ・ よわん ・ がた(潟) ・ 津の上 ・ 谷渡り ・ 南島がた ・ さなつぼ ・ のいこし(乗越) <堀> ・ うなぎ堀 ・ いけ堀(祭堀) <水門> ・ いびのくち(井樋の口) <家> ・ たかしま(島) ・ もんのうち(門の内) ・ たばこ屋(中野克月さん方) ・ 油屋(岡数治さん方) ・ 麹屋(岡実さん方) ・ ろう屋 <道> ・ じどう(地道、治道?> しこ名の由来が分かったもの。 <田んぼ> ・ のいこし(乗越) 持丸駐在所のすぐ南東一帯で、この辺りは小高い丘になっていて、ここを乗越えないと向こうの村には行けなかった。現在県道に「乗越し橋」がある。「のいこしの地蔵さん」(いぼ地蔵さん)がこの地にあって参詣者も多かったが、圃場整備により、もっと東北の地にあった「やっくうさん」と共に遊園地の所に移転した。また昔は駐在所付近からもっと北側まで小高い桑畑で、兵庫畑といっていたそあうである。 ・ つうるめん(通路面か通路免?) 岡安行さん宅一帯で昔は小高い畑であって、北側には乗越の岡であり、乗り越して行く通路に面していたから、または通行を免ずるということから、つうろめん→つうるめんとなったであろうと考える。 ・ やつえー(八つ家、八つ江?) 岡正年さん宅一帯で小高い畑が多かった。昔は高ん段と呼ばれる台地もあり、戦争ごっこ等、子供のない遊び場所でもあった。どうして「やつえ」というのか分からないが、古老の話ではずっと昔、八つの家が付近にあったので「八つ家」だろうという考えと、八つの(多くの)江や堀がこの辺りに集中していたので「八つ江」だろうという考えに分かれるようだ。 ・ ほいがしら(堀頭) 圃場整備まで、門の内の前の岡義夫さん宅前に灌水機があり、井樋の口からここまで大きな堀が走っていた。この堀はこの灌水機のある地点を頭としてうなぎ堀を通り、大方持丸中の堀に連なっていた。それでこの灌水機のあった辺りを「ほいがしら」と呼んでいたのだろう。 ・ やまんなか(山ん中) 岡峰雄さん宅あたりで、昔は大きな杉の木が生えていた。昭和の初期頃までは杉の木が残っていたが、伐採されて現在は一本もない。杉山の中という意味で「山ん中」と言ったのだろう。 ・ 観音屋敷 西の観音さんと部落民が親しみ敬う感応堂(三養基新四国第18番霊場はいつ頃建てられたのか詳らかではないが、その付近は一帯を昔から観音屋敷と言っている。 ・ かねびらき(鐘開き) 持丸の南西にぽつんと二戸の中野家があり、その辺りを鐘開きという。この字の意味から想像すると、昔いつの頃か納江の正安寺の大きな釣鐘がやっとできて来た。お寺では門信徒一同が祝いの準備で整い、今か今かと鐘の到着を待っている。大八車で鐘を運んで来た人たちは、お寺はもうすぐだからこの辺りで筵で厳重に包装された鐘を開いた。そして、紅白のたすきを掛けてお寺へ運んだ。その鐘の開き出したのが「かねびらき」の地であったと言われる。 <堀> ・ いけ堀(祭堀) 薬師如来をまつった若宮八幡は「やっくうさん」と呼ばれ、年に一度お祭りが開かれていた。一年ごとに当番の家が決まり、その家はお宮の世話や清掃などをした。12月20日のお祭りでは人々はお赤飯、お魚、おつゆなどを用意し、お宮にのぼりをあげ、お供えをして豊作を祝った。この堀に事前にフナを入れておき、何日か前に水を抜き、当日このフナを食べていた。このことから祭堀と言われていた。 <家> ・ たかしま(島) 岡清隆さん宅を今でも島という。大正15年前後に筑後川改修工事による土の処理と関連して耕地整理が行われ良田が多く作られた。島の西側一帯の水田をしんがい(新開)と呼ぶのもこれからのことだろう。それ以前はその一帯の水田は低地で島の所だけが高く、洪水となれば丁度高い島のように見えたので「島」と言ったのであろう。 ・ もんのうち(門の内) 中西の岡光夫さん宅を今でも「もんのうち」と言う。江戸時代この地に武士の宇都宮氏の邸宅があって、南前方に門があった。門の内側ということで、門の内と呼ぶらしい。 宇都宮氏は何か失敗して逃げ出して住む人も変わったということである。以前は刀等がたくさん残っていたそうだが、現在はその当時に関係あるものはほとんど残っていない。 <道> ・ じどう(地道、治道?) 北田から持丸のほぼ中央を南北に一直線に走り、浜田に通じる道路で、明治の頃に幅六尺の直線道路として作られ、大正、昭和と部落のメインストリートと言える道路、戦後幅九尺に増幅され町道となる。これに面した岡清人さん、青木武さん方あたりの呼び名も「じどう」「しどうべた」と昔から言っていた。漢字で書けば、地道、治道または里道のなまりではと、意見も分かれる。 また、持丸を含む天建寺村には代官所道路と呼ばれる道路があり、江戸時代、年貢を納めるために使われていた。 持丸について 持丸をはじめ、南島、土居内、浜田、納江などの筑後川流域は、河川の氾濫で土地は荒れ果て、農民の生活は貧しく、極めて不安定なものであったらしい。しかし、江戸時代初期、成富兵庫茂安兵庫成安が12年の歳月を要して、長さ3里に及ぶ千栗土居を築造した。(元和元年大阪夏の陣の年1615年から12年間)。このことにより、洪水の悩みも半減し、水田の悩みも半減し、水田の開拓も進み、生活は安定し、次第に人口や戸数も増え、集落も大きくなっていたようである。 しかし、持丸の集落井樋化は周囲より遅れ、江戸時代中期かそれ以降に発展した模様で、明治になるまでは南島村納江村の枝村として扱われていたようである。 その後、明治22年町村制施行により天建寺村を大字とした時点で持丸は小字となり、現在に至っている。 村の水利のあり方 持丸地区にある水田は、西側にある「開平江川」(かいたいごうがわ)から引水されている。開平江川から「えご」(江湖)という水路を引き「井樋の口」の井樋から各水田に配水された。 ・井樋の口 西の岡道男さん宅の前に50m四方位ある大きな堀があった。ここに石井樋があって当番制で灌漑用水を堀に入れていた。夏の頃は子供たちの水泳場となり、赤い旗を立てて泳ぎ、井樋が跳び込み台でもあった。 持丸地区では淡水(あお)を利用している。淡水は、稲が生育する時期(5〜10月)の満潮時に開平江川から江湖に逆流してくる淡水を、上記に示したように井樋の口から取り入れていた。井樋の口からは当番の者が石井樋を管理していた。 取り入れられた水は各?で二配水され、各水田では水車によって取り入れられていた。水車は足踏みで、大抵は水田一枚につき一つだが、間に合わないようなときは二つつなげて取水していた。 因みに持丸の東側にある土居内地区には井樋がなく他の村と相談して水をもらっていたようである。 昨年未曾有の旱魃で佐賀県の各地では水がなかったり「あお」を取り入れるために水門を開けると海水が入ってきて、農作物が枯れるなど大きな打撃を受けた。しかし、持丸地区では結構水はあり、あまり稲への影響はなかった。だが、「えご」の塩分濃度がやはり例年に比べると高くなってしまい、他の農作物(イチゴの苗床、い草、野菜など)が被害を受けてしまった。 もし圃場整備前に大干魃が起きていたら、他の村と相談して水を分けるだろうということであった。 村の耕地 この地域一帯は、良田が多く、また田んぼによる差はあまりなかったようである。裏作も盛んであり、裏作としては麦を主に作っていた。戦前どれくらいの量が穫れていたのかははっきりと分からないが、昨年は豊作の年で、作況指数115。良田では一反当たり1俵半〜12俵、麦が5〜6俵ほど穫れた。 例年であると、この地域では平均して1反当たり8俵ほど穫れるので、このことから推測して戦前には7俵ほど収穫できたのではんいかと考えられる。この地域一帯は佐賀ではよく穫れる地であるという。 今後の農業について 今後一番力を入れていくのは、やはり米だということである。現在作られているのは「ひのひかり」と餅米である。数軒が「こしひかり」を作っているが、これは個人で売らなくてはならない。 現在自由流通米が出てこようとしているが、この地域では価格が安定している、政府が買ってくれるという面で、ほとんどの農家が農協へ出荷している。 しかし、減反政策、米輸入の自由化などで米の価格が安くなりつつあるので、米以外の農作物にも力を入れるようにしているということである。 現在力を入れているのは野菜(アスパラ、トマト)やイチゴハウス栽培である。またい草も作っているということである。 最後にお忙しい中、様々なお話をして下さった岡子美(まさみ)さん(昭和元年生まれ)と、生産組合長の岡哲男さんにお礼を申し上げたい。 特に岡子美さんは元校長先生で、現在郷土史研究会に入っておられ、様々な資料などもご用意下さって、本当に勉強になった。本当にありがとうございました。 |