【三養基郡三根町南島地区】

歴史と異文化理解Aレポート

南島の調査時写真アリ。

1AG95240 松本智美

1AG95252 松元 香

 

<聞き取り方法>

 生産組合長さんのお宅を訪ねたがお留守だったのでお隣の区長さんのお宅を訪ねた。それでも留守だったので、古老を紹介してもらったが突然お宅へ行っても断られるばかりで、かなり苦労した。

 手当たり次第、いろいろなお宅を訪ねたところ、この村で2番目にお年寄りの方を紹介してもらい、話を聞くことができた。

*南島の風景写真(省略)

 

<内容>

@     しこ名

この地区は昭和63年に基盤整備が行われ、水路なども埋められて新しく大きいものが出来たり、水路も新しく整備されたりして昔とは地区の境界が変わってしまったので、しこ名は使われなくなってしまった。

 昔は一つの田が一反ぐらいで自分の田があちらこちらにあるという状況だったが、基盤整備によってまとめられ、現在は一つの田が6反ぐらいになっている。

 

*しこ名の由来

・ほかごむら、うちごむら

 「こむら」という地域で、南島の中心からみて、堀の外の地区をほかごむら、中の地区をうちごむらと言う。

・のだ

 南島の中心部から離れたところにある。「野」というのは遠いという意味で使われている。

・たかだ

 土地が高くなっているところ。

・なかどい(中通り)

 中心を通る道路沿いの地域。

・よこまくら

 道路の横に位置しているという意味。

・がた

 土地が低くなっているところ。

・はっさき

 南島の中心からみて橋の先の方にある地区。

・いび

 井樋(水門)がある付近。

・よつえ

 堀が交じり合っているところ。

・くらんまえ

 昔、年貢を一旦集めて保管する蔵があったところ。

・いっぽんすぎ

 大きな一本杉があったところ。

・こうじやんまえ

 糀屋があったところ。

・よっしゃんぼい

 「よっしゃんぼい」という堀があったところ。

 

A村の水利のあり方

 昔、水路は個人のものであった。ゴミ(堀につもっている腐葉土)やヒシ(食用の草)も自分の田の横にあるものについて所有権があった。

 水門の管理は部落ごとに行われ、水門の番の人の手当もそれぞれの部落で出すようにしていたそうだ。

 南島は村の南西にある水門を開けて水を引き、水路を通じて村全体に水が行き渡るようにしてあったが、雨が少ないときは村の北側の寒水川の水門も開けて補うようにしていた。

 現在は筑後大堰が建設され、筑後川も上流まで広くなった。水路も国有となった。政府によって水量が調節されている。但し、水不足であろうと決まった水量しか流れてこない。

 筑後大堰を建設する際、魚が獲れないということで漁業組合が大反対したので、漁業組合の人は国から補償として手当をもらっているそうだ。筑後大堰の水門管理は国によってなされている。

 水門を開けるのは旧暦の1日と15日を中心とした前後数日間、有明海が満潮となる時。有明海が満潮となると水面が数メートル上がり、海水が川に流れ込む。流れ込んだ海水が上流から流れてくる淡水の下に潜り込むので水面が上がり、その上部の淡水を田に引く。

 昨年は未曾有の旱魃だったので、上流から流れてくる淡水が少なく、海水がいつもより上流に流れ込んできたので、田にその海水が入り込んでしまったので塩害がひどかったそうだ。

*水路の風景写真(省略)

*錠井樋(水門)の写真(省略)

 

B村の耕地

 特に米が良くとれるような田はなかったそうだが、土地が高いところの方が比較的多く穫れ、石井地区の野田、高田がそうである。

 今は良田、悪田は部落ごとに公平になるように、生産組合長さんが分けているそうだ。

 村の耕地は圃場整備によって水路も水田も昔と全く変わってしまっていて、北田地区、南島地区は、私たちがもってきた地図と違っているようで、おじいさんが場所をはっきり認識できなかった。

 

C反省、感想

この調査では頼りにしていた生産組合長さんが不在でいらっしゃったことが私たちをはじめての地で、すごく不安にさせた。はじめは自分たちがどこにいるのかも分からないくらいだった。何一つ調べていないまま、昼食をむかえてどうなることかと思っていたが、何とかなるもので、親切にお年寄りを紹介して下さる方に会えた。

お昼時でみなさんお忙しいのにきちんと私たちの相手をして下さったのが嬉しかった。一人目のおじいさんは耳が遠く、補聴器をつけてお話をしてくれて、私たちの知らないこと、理解できなかったことを何度も丁寧に話して頂いた。石井地区の方だったので、他の地区の方を教えてくれて、体が自由に動かない二人目のおじいさんはお仕事をしていらっしゃったのに、途中で止めて話をしてもらい、かなりのしこ名を教えてもらった。

おじいさんと一緒に写真をとろうかとカメラをもっていったのに忘れていて撮れなかった。

今回の調査で地元の人たちの温かさと周りの環境の静けさがすごく新鮮に感じた。

凄く暑い中を歩き回ったけれど、歴史に残る重要な資料を作るのに役に立てたと思うといいことをしたと嬉しく感じる。

もう少し正確なものを、きちんと役に立つものを調査したかったが、これが私たちの5時間の精一杯の結果である。

 テープ録音しようと思っていたのにそこまでの余裕がもてなかった。

おじいさんのお話からは、本当に地域が強く結びついていて、「――さんの田んぼ」で話が通じるから凄い。話を聞いていてそこまで聞きにくいことはなかったし、アクセントも特別違っていることはなかった。

佐賀で過ごしたたった5時間がすごく勉強になったと思います。楽しい、きつい一日でした。

 

お話をして下さった方

 副島弥作さん 明治45年生まれ

 橋本藤市さん 大正元年生まれ