【三養基郡三根町浜田地区】

歩き・み・ふれる歴史学レポート

1AG95016 池田 敦

 1AG95041 後木吉朗

 1AG95045 浦川明子

 

水田調査結果

 

@しこ名について

 田ん中のしこ名は14個収集することができた。

 名称は次の通りである。

  すなわら

  こうじゃく

  じゅうのわい

  くまだ

  にのうえ

  なかみち

  こつじ

  かんしいどう

  いわまん

  つうだ

  たかじょい

  はっちょうぶ

  なかずな

  さんちょうの

 

 なお、位置関係は別紙の地図の通りである。(地図省略:入力者)

 また、姉川悟さんによると、「三丁野」のあたりまでが浜田の範囲ということであったが、松永輝二さんによれば「下安永」も浜田に入るということであった。

 クリーク、水路、橋、樋門などには特にしこ名はないとのことであった。

 

A村の水利のあり方について

     水田には筑後川の水を開平江排水機から取り入れていた。

     用水はとなりの納江と共有していた。

     浜田のあたりでは水が豊富なため水争いはなく、そのため昨年の渇水の時も深刻な状況にはならなかったそうだ。それでも例年よりは少ない収穫量だったようだ。但し、塩害を防ぐためにわざと水路を迂回させて田に水を引き入れたり、2,3日ほど水を水路にためてほったらかし、重い塩水を底に沈めた後、塩分濃度を薄めてから水田に水を引き入れたりしたそうだ。この方法は昔ながらのやり方であり、井樋番の生きる知恵である。

     井樋番は二つの村(浜田と納江)の水を管理する重要な仕事だったため、潮の干満に精通した専門の人(主に川で漁をする人)が担当していた。

     あおとりの時期は5月〜10月。

     井樋番に対する手当は納江と浜田が村の広さに応じて米で支給していたそうだ。さらに、村の内部の水門についての井樋番は村の内部での話し合いで担当する者を決め、同様に米で支給していた。

     灌漑時期のクリークのゴミの所有権は水路を挟んだ向かい側の田と話し合いで決めていたそうだ。魚の所有についても同様。また、クリークのゴミを田に上げる作業は現在入札制である。

     1年で1反当たり150200円で人を雇っている。

     もしこの前の大旱魃が30年前に起こったとしても、この浜田の当たりは水が大変豊富であるので、その心配はないが、水量の減少による塩害の方が問題だそうだ。

 

B村の範囲について

 隣村の納江と水路を共有しているため、納江と浜田の境界は明確ではなかった。

 

C村の耕地について

     ほとんどが乾田。

     田の善し悪しの差は浜田ではあまり見られなかったらしいが、強いて言うと14年ほど前に行われた圃場整備の際、点数化がなされ、良い田んぼは広く高い位置にあり、道の近いところだったそうだ。

     戦前では豊作と言われる時で反辺り8俵ぐらい。現在では豊作時で10俵程度の収穫だそうだ。

     肥料については戦前にも化学肥料はあったそうだが、生産組合の配給によるためだったらしく、十分ではなく、価格も高いためなかなか満足のいく使用ができなかったみたいだ。また、そのためにクリークのゴミや大豆の殻を燃やした灰を主に使用したり、大豆を作ったりしていたそうだ。戦時中は満州から入ってきた大豆の搾り滓を安価で買い上げて肥料に使っていたらしい。

 

D今後の日本村の農業について

 昔は梅雨の時期に水田が一面水浸しになっていたそうだが、圃場整備が終わると機械の進歩があり水害は少なくなったそうだ。だが、今は少雨などによる水不足の時は水資源開発公団が福岡へ水をやり、そして工業用水そしてそれらの残りが農業用水としてまわす。しかもその水というのは有料で使用しなければならず、そのことがかなり不満であるようだった。

 しかし、何と言っても最大の悩みは後継者不足であり、若いと言われる方で40代後半であるということだ。年配の方で農作業のできない人の水田は、村で余裕のある人が仕方なくやっているという形だそうだ。

 詳しく話を聞くと、米の値段が安くなったこと、農機具の価格が高いことが原因で、もう小規模の農家では採算があわなくなってしまっているそうだ。

 現在政府が進めている農家の大規模化も資本が無理のようだ。もはや日本の昔ながらの稲作のシステムは行き詰まってしまい、どう仕様もない、というのが感想であった。



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