【三養基郡三根町土居外地区】

歴史と異文化理解Aレポート

野中大輔、浜中大介、平山聡司

 

 土居外(どいほか)での聞き取り調査は主に生産組合長さんの福田康道さんから行った。現場に到着してから分かったことだが、当日(7/9)に土居外地区では新しい公民館の落成式が行われており、(おそらく)区民全員が集まって宴会をやっていた。そのため、邪魔をするのもどうかと考えた。その反面で、たくさんの方から多くの話を聞けるかもしれないと思っていたが、実際に昔の田ん中のことがおわかりになる方は非常に少なかった。しかし、福田さんは宴会が盛り上がっていく中で非常に丁寧に思い出せる限りのことを僕たちに教えて下さった。

 

土居外の特徴

 「現地調査のためのマニュアル」と福田さんから聞いた話を比べてみると、土居外地区は他の地区と全く異なった歴史を持っていたことが分かる。

 

A 水源について

 土居外地区はもともと現在の筑後川にあたる「新川(しんかわ)」と呼ばれる川と「古川(ふるかわ)」と呼ばれる川にぐるりと周りを囲まれた、いわば陸の孤島だった。

 そのため、田への導水も比較的容易で、他の地区からは隔離されたような状態であり、溜池や共有の用水を用いている村とは異なり、他の村との水争いは無かったものと思われる。

 また、水の取り込みには昔からポンプが使われており、写真Cにあるように古いポンプ所のうち一つはまだ残っている。現在は1号から4号までの新しいポンプ(写真@〜B)が稼働している。

B 田ん中について

そもそも地形から考えてこの地形は洲のようなものだったと考えられる。そのため砂が多く、地図上の「旧田(きゅうた)(4.5h)のみは土も豊富で常に湿っており、稲作に適した土地であったため、ずっと水田であり、他の場所はすべて畑であった。

明治40年になると、「内田(うちだ)(20ha)という地域が開発され、砂を運び出し、水田となった。この内田という場所は非常に乾きやすく、稲作には適していなかったそうである。

昭和27年には「古川」の一部が埋め立てられ、「営団」(19ha)が出来る。

この頃から「古川」は水路となり、昭和45年の埋立と、平成3-5年の土地改良工事で「古川」はほぼ消滅する。

 

C しこ名について

 地図上方から(地図省略:入力者)

・北村 きたむら

 詳細不明。福田さんも何故こう呼ぶのかご存じではなかった。

・茶園畑 ちゃえんばたけ

 この場所で少しだけ茶が作られていたため。

・内田 うちだ

 元々この地区はほとんどが畑であり、サツマイモや大根を作っていたそうである。砂が多く、乾きやすいためであるが、明治40年に水田に変えられた。地区の中心にあるため内田と呼ばれた。

・どっくばか

 佐賀地方の方言なのか、この地区だけの呼び名であるのかどうか分からないが、食用ガエルの大きなものを「どっくさん」と呼ぶそうで、この「どっくばか」には「どっくさん」が多くいたそうである。そのため「どっくさんばかり」が「どっくばか」になったのではないだろうか。

・旧田 きゅうた

この地区ではもともとからあった唯一の水田。他は畑だった。

・けいばん中(なか)

 ここは特に砂が多かったそうで、ここでは「砂競馬」が行われていた。「砂競馬」とは各々尾の家で飼っている農耕馬をもちよって競わせるもの。

・塩水 しおみず

 詳細不明。

 

D 平成6年における水対策について

 筑後川の塩濃度が0.3%になると塩害が出るそうなので、一度4号、1号ポンプで水を、2号、3号ポンプまであげて逆流して1,4号ポンプまで水を利用してのりきったそう。犠牲田などもなかった。

 

E 村の境界

 もともと川で囲まれていたため、はっきりしている。

F 畑について

 まとまった畑は地図下方(省略)に示した一ヶ所しか存在しない。後はすべて水田。調査時は田植え直後で緑が一面に広がっていた。

 



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