32班 1TE96591■黒崎泰英
lTE96831■若狭正朋
T しこ名の由来
吉原
清水(しょうず):水が出た。この水で部落の飲料水などをまかなっていた。
なかふけ:村の中央の、という意味らしい。
とおのき:遠くにある広い場所。
大清水(おおしみず);ここでも水が出た。
ほんぼうじ;お寺があった。ここは吉原外。
高田
おもに神社・寺などを基準にして、お宮の西、などと東西南北を東西前裏に対応させて名付けることが多かった。
ほかに、こうだ(高田:一段高い所にあった)、メンダ(むかしの共有田)、ネギダイ(家のまわり)など
U 水利について
吉原・高田は祇園川の形成した扇状平野にあたり隣接する村でも水利には大きな差が見られる。
一言で言うと吉原は扇央にあたり水不足。高田は扇端に位置し湧水が豊富。
吉原
祇園川はもともと水が豊富な川ではなかったそうで、吉原ではしばしば水不足に悩まされたそうだ。水不足になると田植えの時期を遅らせることになるため、上と下のほうでずれが生じることもあったらしい。地質が砂利で水分が浸透しやすく、また稲の根は伸びにくい。昔は早稲(わせ)と晩生種があったらしい。割合としては早稲の方が少ない。
用水に使っていた1m幅程度の川にも名前がついている。天神川、中川など。
扇端に差し掛かる南端の方では湧水が見られたが(清水)下の部落の管轄だった。(高田・長神田など)
おととしの大干ばつの時には、井戸からポンプ出水をくみ上げて水田にかけた。
砂利層を伏流する水をくみ上げて使ったとのこと。この時地上の水路には水が流れていない。
このほか昭和14年の大干ばつ。75日間雨が降らなかった。この時は祇園川が完全に枯れてどうしようもなくイネがつくれなかったという。
干ばつは田植えの前の時期に来るので、そのときは唐芋を作るそうだ。
戦後になってからは共済組合から共済保険金が降りるのである程度は保護されるという。
高田
先端に位置する高田では湧水が豊富で吉原とは打って変わって水にはほとんど不自由していないようだった。これは吉原もだが水は祇園川の上流、須賀(すが)神社の前から用水路でひいてきている。須賀神社には北浦というため池があった。
水引の時というのは主に耕作面積によって決められていた。特定の時間の用水には十八(しこ名)の水、吉田の水、といった名前で呼ばれた。時水、時の水といった物は時間外の水という意味でここでは余り水のことをさしていた。
吉原は8時まで、高田は8時30分までといったときに、その中間地帯にある集落が30分間もらう水のことをさしていたらしい。
水番もいたらしい。
ここには余り井戸はなかったが、S42年の干ばつの時に井戸を掘った。直径は60cmから1mくらい。
扇状地の扇端にあたるため、干ばつ出も水が枯れることはほとんどなく、枯れても50cmくらい掘ればすぐに水が出た。
昭和28年から百姓をやっているそうだが水害の方がひどかったらしい。
おととしの大干ばつでは北浦の溜池から2回水をもらったらしい。
9月の盆の頃に稲には一番水が必要なそうだ。あとは昼にすべての水をポンプアップしておいても次の日にはいっぱいに水が溜まっていたという。
このあたりは扇央にも水田が有り、扇状地としては比較的水が豊富な方だという話だった。
V 共有田について
吉原の共有田はメン田とよばれていた。これは高田の元共有田のしこ名と同じ物である。共有田ではお祭りをしたらしい。戦後の農地改革で共有田はなくなったそうだ。
高田の共有田もメンダというしこ名を持っていた。発祥は不明。
村民のふれあいの馬で祭りなどが行われたらしい。
メンダのほかにも神社の所有地である場合もあった。お宮の前など。こちらも農地改革でなくなっている。
W 良田悪田について
裏作は麦。吉原では上が乾田、下が湿田。上の方が土地がよい。下は黄土。
収量に差は余りないが、乾田湿田の間で少し差がある。100mにつき1mほどの割合で、集落全体では5mほどの高度差がある。湿田の方が米は多い時もあるが乾田では裏作で麦が作れる分有利である。
乾湿は高低には関係なく、川沿い、水路の岐路付近が湿田になっていた。
扇状地のため川上には砂が堆積、ずっと下流は粘土。
X 共有林について
“ししがじょう”とどこかに2個所あったらしい。土地は植林時に借りうけた。(買った?)今は町の施設がある。
共有山として利用され昭和35、6年に公民館を作るために木材を伐採したらしい。今はみかん山になっているが昔は古墳があった。
長神田の方ではまだ存在しており日曜などに手入れに行く。
VI その他
圃場整備は吉原が45、6年。こちらは国が試験的に行った。高田では53、4年に行われた。
坪に欠番が出てきたのは区画整理後。
他部落との境では長神田の西というようなしこ名も使われた。
遮る物がないので台風の外は相当ひどい。特に太平洋側を台風が通った時、山からひどい風が吹き降ろす。天山颪とよばれる。
高田は36丁。4丁が一坪で、12坪。
吉原は36坪。
高田は長神田から坪数字が続いている。
裏作は、圃揚整備前は四角でない田が多く、また人力だったため、手間がかかるとして、しない所も多かった。
筆がきの、名寄せ帳というのもあった。とても厚かった。
三日月は昔の条里制か色濃く残っており高田ヶ里、初田ヶ里、久米ヶ里などといってい
た。また五条、四条が牛津などに。
井戸は圃場整備の時に埋められた。
北山ダム水系では水路を取っていないが、ここでは大きく取っている。
整備の時にはその大きさは意外だったがおととしの干ばつの時に役に立ったという。ちょうど高田あたりは水が豊富なため他の部落からも作りに来ていたらしい。その時は臨時費をとっていた。
今年は筑後川の工事で水利が改善されるかもしれないとの事。
話 吉原:牧瀬寿男さんM43生まれ
高田:大家政好さん50歳くらい
X 感想など
まず駅の前の横断歩道に信号がないのに驚いた。
とっても自転車がほしかった。
地元の人は親切で昼食をはじめやたらと食べ物を出してくれた。
交通費が少し痛手だった。