Ll-10東、太平
◎ 歴史と異文化理解Aレポート(遠江、島溝、四条)
1 遠江 小林和俊さん〔S10生〕、永渕高美さん〔T14生〕、永渕竜一さん〔S8生〕
@ 水源
北山ダム→嘉瀬川→西芦刈水路→久保田幹線水路→遠江地区
遠江地区で、三台の取水器で取水している。この三台の取水器とは、別々でなく、三台を使って、水を段階的に上の土地へと上げるようにしている。
また、かつて、島溝と、水路で争い、裁判沙汰になった事も。この原因は、幹線水路から、ポンプ場までの間で、地下水が漏出し、その水を、島溝の人が使用し、遠江の水が足りなくなったためだそうだ。
A 肥料
かます(藁のようなもの)ばかりであった
B 収穫
よいときで、7〜8俵、悪いときで5〜6俵
C その他
ここ、遠江では、ビニールハウスの中に入った。暑いとは、聞いていたが、まさか、ここまでとは思っていなかった。中の温度は30度あり、湿度は梅雨以上であった。それでも、聞いた話では、その日は、まだ、曇だからましで、晴の日は、さらに暑いそうだ。農業の辛さをかいま見たような気がする。
2 島溝 南里正人さん〔S3生〕
@ 水源
北山ダム→嘉瀬川→西芦刈水路→久保田幹線水路→島溝地区
水路の監視は、大雨の時はいつも二人で行い、それに対して、生産組合や部落から、現在で年に2000円がでるそうだ。
A 肥料
かます
B 収穫
よいときで、7〜8俵、悪いときはまったくとれない事も。
C 地質
この土地は、よく堤防が壊れていたために、土地は砂質である。
D その他
島溝地区では、入会山はなかったが、変わりに、寺の回りなどには、奉納のために、みんなで耕作する《めん田》があった。
1994年の水報策は、発電器でたまり水を取っていたそうだ。
3 四条 高田金八〔S7生〕
@ 水源
昔…… 祇園川 → ナバ水路 → 四条地区
現在……祇園川
→ ナバ水路 → 四条地区
北山ダム
この、ナバ水路のナバとは、昔この土地でとれていた茸の事を、ナバルと呼び、四条地区自身もナバル地区と呼ばれていた事によるのではないかと言う話しだった。
また、干ばつの対策は、水路を当番制で監視する事。特にひどかった1994年は、水路を使用している芦刈、牛津、三日月、大和で、田の割合により時間ごとに、水を分けていたそうだ。
水路のれい土上げ(ゴミ掃除)には1週間もかかり、これに出られない人は、その分、出不足金を出さなければならない。
A 肥料
大豆かす、牛・馬のたい肥
B 収穫
よいときで7〜8俵、悪いときで3〜4俵
C その他
この四条地区では、ビール麦を栽培している人もいるが、ビール麦では、逆に、赤字になる事が多いそうだ。そのため、田んぼをほったらかしにして野ざらしにする農家も増えてきたそうだ。
また、兼業農家の中には、昼間は会社で働いて夜の11時以降まで働いている入もいるそうだ。
4 農業についてのその他のお話
戦前、耕作面積は、現在よりもはるかに広く、牛の力や、自分の手で農業を営んでいた。しかし昭和23〜24年からマッカーサーの命令により、耕作面積が狭くなり26年頃まで、生活が苦しかった。この頃から、農業の機械化が始まり、32〜33年からは、トラクターが登場した。だが、農業の機械化による人での減少、また減反政策による農地の縮小により兼業農家が増え、四条地区では、専業農家はゼロになっている。特に今年、三日月町では、35パーセントの減少となっている。このような状況に対し、「今の農業は、唯、農地を管理するためだけに行っている」、「後継者不足で、これからの農業は立って行かない」、「日本も沈没するだろう」と言った暗い話ばかりであった。