【小城郡三日月町高田・佐織・戊】

歴史と異文化理解 佐賀調査報告

1EC95256徳久愛子

1EC95265浜本 史

 

 

<三日月町高田>

 私達は三日月町高田での調査において、大家政好様(昭和6年生まれ)にお尋ねした。

 まず、田んぼのしこ名についてであるが、あまりはっきりと覚えていらっしゃらず、おそらく地図に書き込んだような区分けをし、10の坪から18の坪と呼んでいたであろうという話であった。特にちゃんとした名前はなく、すべて番号で呼んでいたそうである。また、堀、橋、しいど等のしこ名は全く記憶にないそうである。(近辺の方々にもお尋ねし、大家様もいろいろな方々にお尋ねしてくださったが、記憶に残ってないようだった)

 

次に村の水利のあり方であるが、高田の水田にかかる水は山王川から引水している。この他の水源(いかりなど)は特になかった。この山王川からの引水は、初田・戊と共有していた。また、配分に際しての特別の水利慣行などはなかったようだ。水争いはやはり先に挙げた2つの村と激しく行われていたようだ。

一昨年の干ばつに際して、この地区はさほど影響は大きくなかったようである。これは水路の水の再利用をするという効果が大きかった。これで随分しのげたし、限界の時にはラッキーなことに雨が降ったそうだ。もし、この干ばつが起こっていても、何とかなっていただろうとおっしゃっていた。それは何故かというと、ここら辺は小さな井戸を掘っていたからだ。それで、少量ではあるが水がまかなえたそうである。

 

共有の山林はない。また、米のよくとれる所ととれない所の場所的な差はあまりないが、天山からの風が被害を及ぼすので、村の上部はとれにくく、下部はよくとれるらしい(地図上で)。

村の境界は地図中に赤ペンで示した通りである。

(地図は佐賀県立図書館所蔵)

戦前は、肥料としてイワシをよく使っていたそうだ。

 

この方はあまりはっきりと覚えていらっしゃらなかった。近辺の方々にもお尋ねしたが、皆さん同じような答えが返ってきて、以上に示したものしか集めることができなかった。

 

 

 

<三日月町佐織>

 三日月町佐織では、永松敏巳様の奥様(昭和13年生まれ)にお伺いした。いろいろと資料を集めてくださったが、田んぼのしこ名が数個出てくるくらいで、位置的なことはわからなかった。

 田んぼのしこ名は、五の坪、三十一、三十五、四の坪などと呼んでおり、特別な名前はなかったそうである。また、この地区は庵があったり(この地区では珍しい)、遺跡、戦場地があったりしたと教えてくださった。しいどのしこ名は馬川(うまんかわ)というのを覚えていらっしゃった。橋のしこ名は権げん(ごんげん)橋、石橋があったらしいが、場所がはっきりよくわからないらしい。また、「てしいど」という手を洗う所の呼び名もあったようだ。

 

次に村の水利であるが、佐織では長神田の上、天山山系の川、祇園川から主に取水、現代では北山ダムからも取水しているようである。昔は水争いがやはり激しかったらしい。高田、長神田、吉原と主に争っていたようだ。また、水利慣行はあった。時間帯を守り、番をつけていたそうである。

 一昨年の大干ばつにおいての水対策は、北山ダムからの水でまかなっていた(ポンプで)。地図上、佐織の右下の水路(あしかり水路〔入力者注:「あしかい水路」にも見える〕)からの水も多かった。この水路はこの水路付近だけ持つことができたので、権利を持っている田んぼが、その付近の田んぼに水を分け与えていたようである。しかし、ダムが完成すれば干ばつの問題はなくなるらしい。もし、この干ばつが30年前に起こっていたら、すべて枯れていただろうとおっしゃっていた。

 

米のとれ方の場所による差は、高田と同じく風の影響により、地図上、村の上の方がとれが悪く、下の方がよくとれる。上の方には乾田があるが、全体を見ても湿田はない。

 戦前の肥料は、小魚、大豆かす、牛馬のフン(たい肥)をよく使っていた。

 

 あまり覚えていらっしゃらなかったが、戦争中のこと、農家の後継者問題などについてたくさんお話してくれたので、私達にとっては勉強になったが、情報がこれだけしか集められなかったのは残念だった。

 

 

 

<三日月町戊>

 私達は三日月町戊での調査で、伊東俊幸様(昭和5年生)に協力していただいた。

 まず、しこ名については、戊すべての田のしこ名を覚えてはいらっしゃらないそうで、すべてを地図に明記することはできなかった。しこ名は「三角田(さんかくだ)」、「一等田(いとだ)」、「おおてんじんさのまえ」、「せいじ」というものがあり、名の由来は田の形、質、場所、または持ち主の名前からとられたものであった。

 次に橋のしこ名については、「広小路(こうくうじばし)」というしこ名を教えていただいた。ほり、しいど、井樋のしこ名については覚えていらっしゃらなかった。ご近所の年配の方にお尋ねしてみたが、答えを得ることができなかった。

 

村の水利のあり方については、しゅうじん川という川から引水されており、川水は単独の水利ではなく、ふたまた、なまこだ、寺などの下の村と共有していたとのことであった。川の上流の方が慣行により権利があり、下流が権利を得ることができるのは干ばつの時のみであった。下の部落が上の部落の区長に抗議したが、たいへん厳しく、受け入れられなかったそうである。上流の辺りの部落と下流の辺りの部落とでは、たいへん激しい水争いが行われていた。平成6年の水不足では、部落で水害対策事業を行い、井戸を掘り、つなぎ水でまかなえたそうである。もし、これが30年前に起こっていたら、うらのため池からの水により、枯れてしまうまではなかっただろうとのことだった。

 

 村の共有の山林はなかったそうであるが、昔から続いた特種寄付により部落共有の「めんだ」というものが存在したそうである。現在、その「めんだ」は部落内の家々で分けられた。

 

 村の耕地については、米がとくとれる所、とれない所、つまり、よい田、悪い田はやはり存在し、戊の下の方(中心部)が米がよくとれていたそうである。よい田、悪い田の正確な俵数を聞くことはできなかった。

また、戦前の肥料については、満州からの大豆、大豆かす、油かす(有機質)、魚粉、もみがら、たい肥などが使用されていた。

 

伊東様、他の方々にも協力していただいたにもかかわらず、すべてのしこ名を調べ上げることができず残念だった。



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