【小城郡三日月町島溝・甲柳原】

 

L-1-14 1EC95240Y鈴木 旭、

1EC95258S仲野総一郎

 

<島溝>

【協力者】古川展男さん(大正9年生、75歳)

 

 最初、古川さんの家を捜すのに大変苦労した。何故なら、事前にアポを取ってはいたが、田が似たような造りばかりしていたので、間違いやすかったからである。これは政府による圃場整備により、きちんと区分けされたためと古川さんは言っていた。

 

この辺りの土地のほり(きれと)は、現在は整備され、埋め立てられたそうだ。

 

祇園川の下に石井樋が造られていた。それが建築されたのは、何百年も前からだったそうだ。後、付け加えると井樋の長さは三十八間だったそうである。しかし、現在は、井樋も二・三十年前に撤去され、史料として少し残してあるだけだそうである。

 

島溝の水利体制は昔とほとんど変わっておらず、取水は北山ダムより行っているそうだ。おととしの水不足も制限給水で乗り切ることができたが、三十年前(ダムからではなく、水源地より取水していた頃)だったら、まちがいなく枯れていただろうと話してくれた。それと、石井樋には常時見張り等はつけておらず、非かんがい時期のゴミとりは近くの田の人が行っていて、肥料としてその人が使っていたらしい。おととしの水不足は、三日月の役場より北はダムがなく、井戸を掘り抜き、切り抜けたとも話してくれた。現在、その地域もダムが建設中だそうである。

 

その他には、

     共有林は点在していた。

     昔、きただは水害のため五〜十年に一回は米がとれなかった。

などと話していた。

 

農業形態は、専業でやっていくことは今の時代ではかなり苦しく、兼業(ビニールハウス等)の農家がほとんどだそうである。昔にくらべると楽に農作業は行える(機械による)ようになったが、その分お金がかかるようになり、収入自体は減ったという。

 

後、これからの農家は後継ぎがなく、さらに苦しい状況に追い込まれるであろうと古川さんは話していた。

 

 

 

<甲柳原>

【協力者】内橋 優さん(昭和8年生、62歳)

 

 事前にアポを取っていた古老が留守だったため、急きょ島溝の古川さんの紹介を受けて、別の古老に昔の地名やその土地の収穫のことについて尋ねてきた。

 

 まず、地名だが、世間一般で広く呼ばれているのは“こうやなぎはら”であるが、地元の人々は“こうねがい”と呼んでいるそうだ。その由来については、彼の生前からの呼び名のため不明であった。

 

 次に、この地域では水利が悪く、島溝ほどの収穫高はあげられないとのことで、平成6年の干ばつではかなりの稲が枯れたそうだ。もし30年前であったら、さらにすごい被害であっただろうと語っていた。そして、その水不足の地域での井樋の利用法は、意外にも防火や洗濯などの生活用水が主で、水田のためにあったのではないとのことであった。しかし、いくら水不足の地域といっても、“のま”や“いしきざかい”などというしこ名のついた水田は水利がよく、さらに平成12年頃には新しいダムも完成し、水の問題も解決されることとなるということであった。

 

 最後に、この地域の農業の将来の展望は、後継ぎがいない状態と、今現在も専業農家は数少なく、農業だけでは暮らしていくのは困難であるという現状から見て、協同でハウスなどを経営する複合農家経営の形態が突出してきそうである。



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