【小城郡三日月町織島 岡本町・杉町・大地町・深川・今市地区】 歴史と異文化理解A 1EC95019■井上喜文、1EC95021■岩崎良一 1EC95024■宇都宮大輔、1EC95031■大城邦治 1月13日、私たちは佐賀へ現地調査に行ってきた。その場所は岡本町、杉町、大地町、深川、今市の5つである。 はじめに、大地町の木下さんのお宅を訪問したが、都合が悪かったということで、石井さん宅へうかがった。地図の作成された年代がわからなかったので、わかりづらかったようでした。昔の水田の様子やしこ名などは思い出してもらえなかったようですが、水路の名前などは少し思い出してもらえました。山から水を引いてくるのに“中溝”と“ふたまた”とよばれる水路があったそうです。またその南の方に“ひいでぇ”とよばれる水路があったようです。水田の名前はわかりませんでしたが、深川の大きなお寺の持っている水田は“にしだ”とよばれているようです。 次に、杉町の西さん宅へうかがったが、留守だった。そのため、岡本町にある江原さん宅へうかがい、そこで杉町の話も聞かせていただいた。そこでは、部落ごとの村意識が強かったということが印象に残った。というのは、自分の村を中心に、部落内部のことをむらうち(村内)、部落の山を背にして見た前のところを、むらまえ(村前)、村の西のことを、むらにし(村西)、と呼ばれていたからだ。このことは、どの村にも共通していたということだ。田のしこ名はあまりわからなかったが、杉町と岡本町の境界のところを辺田というらしい。また、過去の地名で興味深かったのは、どうしんやま、しびとやまというものがあった。この2つは昔の処刑場であり、衣服を焼いたところでもあったらしい。この2つには昭和60年ごろの基盤整備でなくなったそうだ。岡本の北にある権現山は彦島山とも呼ばれ、彦島とは岡本の俗称でもあるらしい。しかし、今では使われていない。 水路については、岡本あげと呼ばれるいぜきから引いていた水路を使っていた。岡本あげとは祇園川をせきとめていたいぜきで、今でも彦島橋の名で残っている。当時、水はここからだけ引いていたが、大正時代末からは地下水を用いているそうである。現在、岡本は4つの部落にわかれていて、辺田、古賀、中古賀、西古賀である。 最後に今市を訪れた。予定した時間より少し遅れてしまい迷惑をかけてしまったが、御主人が留守ということでそのあたりに詳しいというおじいさんを紹介してくれた。長い年月を感じさせる家屋の入口をあけると、おじいさんの孫らしき子供が犬とたわむれていた。奥の部屋でおばあさんとこたつに入っていたおじいさんに事の成りゆきを知らせた。しかし、おじいさんは昔の事なのでもう覚えていないそうだった。しかしそれでは悪いからと、今市の公民館を開けてくれた。公民館のおし入れの中には今市の歴史がこと細かく示されていた。その中に昭和43年の土地の呼び名が示されている地図を見つけた。下の図はその写しである。 ※〔図省略、図に書き込まれていた文字は以下の通り〕 「五十番 字金井堂壱割」「五十一番 字金井堂二割」「百四十九番 字一丁原壱割」「百四十六番 字二丁原二割」「壱本拾弐割 弐拾三番字東」「百四十六番 字塚崎壱割」「百四十七番 字一丁原三割」 この図について詳しいことを聞くことはできなかった。もう年寄りの人以外は覚えてないだろうと言うのだ。おじいさんを紹介してくれたおばさんも言った。こういうことは忘れるべきではない。自分達の住んでいる土地の事は知っていたい、と。 この佐賀への調査で僕達の地域に対する意識が深まったのは間違いないだろう。急激に変化している世の中でこうした地域に関する事柄が人々の中から消えているのもまた事実である。僕達は帰りの車の中でそれぞれ感じたことを話し合い、この調査を終えた。 |