【小城郡三日月町長神田佐織】

現地調査レポート

 参加者:加口浩之、相場政光

 

聞き取り者:牟田口 徹さん(60歳)、陣内正雄さん(73歳)

 

1.        田ん中のしこ名

 地図参照。空白のところは、佐織には年輩者が少なく、佐織の住民の人もわからないだろうと言っておられました。

また、陣内さんの推測ですが、

 

〔図省略〕

 

上の図の矢印のように、「いだんすみ」から一の坪と呼んで、最後は三十六の坪と呼んでいたかもしれないとおっしゃっていました。

また、地図からよく見ると京都のように区画されていて、645年の大化の改新の時のものではないかともおっしゃっていました。

 

 

2.        橋のしこ名

 いっしゃん橋(どこかよくわからないそうです)

 

 

3.        圃場整備以前はどこから水を引いていたか

 小城町北浦のため池。水には困っていた。今は使っていない。水喧嘩はあった。また、大正十一年には六の坪内に地下水を掘った。しかし今はもう使っていない。

また、水路は一尺程度だった。そして夜に上の方で水をせきとめているものを取り払いに行ったりもして、喧嘩もしたそうです。

 

 

4.        田んぼで良田と悪田があったか

 地図参照。

 (地図は佐賀県立図書館所蔵)

 

5.        裏作について

 牟田口さんはあまりやられていなかったそうですが、小麦を作ったこともあるそうです。

 

 

6.        田ん中のしこ名の由来

ž            がらっぽ:石が多かったから。

ž            いまでら:昔はあまでらでなかっただろうか。

ž            五反角:五反あったから、自分達で覚えやすいようにするため。

ž            さやんかい:水路端に神様をまつっていた。

ž            いだんすみ:田んぼの端にあった。

ž            塔頭:住職の名称。

ž            しょうでー:寺の所有地。

 

 

7.        佐織の由来について

 田の神様をまつるところで由緒あるところだそうです。縄文遺跡もあるそうです。

 

 

8.        戦前の肥料について

 たい肥、大豆など。

 

 

9.        昔の農業について

 牟田口さんの子供の頃、馬や牛を使っていて主に馬を使っていたそうです。また、馬の散歩などして落馬もよくしたそうです。

 昔は2時から苗をとって、明るくなったら田植えを始めて、夜の8時頃までかかっていたそうです。また、みんなで協力していたそうです。

 1月、2月で米になっていたそうです。

 

 

10.    これからの農業について

@     牟田口さん

後継者不足だが、委託という形をとろうとは思っていない。子供しだい。また、3町・4町の田んぼでは食べていくことができない。だからハウスなどをしている。

 

A     陣内さん

 これからの日本について、昔の農村文化を生活に取り入れた日本社会を作っていくべきだ。また、農業は自然を相手にしたもので、損得で守ってきたものではない。現在、地域社会のつながりが失われつつあり、個人主義・民主主義ばかりを主張しすぎている日本の将来を心配されていました。

 そして陣内さんは、土地は決して売ったりはしないと、最後におっしゃっていました。

 

 

11.    調査を終えて

 牟田口さんはとてもいい人で、自分の土地の明治時代くらいからの資料をみせてくれ、昔のことを懐かしそうに話してくれ、私は時間も忘れて聞き入っていました。

 陣内さんは圃場整備の時の委員長をはじめ、いろいろな役を引き受けていて、賞状なども見せてくれました。そして佐織の歴史についてもいろいろ調べているようで、資料などを見せてくれ、万葉の頃の資料に佐織のことについてかかれていて、嬉しそうに語ってくれました。

 

 はじめ、佐織についてなんとも思わなくて、なにげなく行ったにもかかわらず、佐織の由緒や伝統などを聞くことによって興味深く思われるようになり、とても良かったです。

 そして陣内さんはこれからの日本のあり方など、いろいろなことについて話をしてくれ、とても役に立ちました。

 最後に、なんの連絡もとらずに突然うかがったにもかかわらず、快くお宅に入れてくださって、全く知らない私達にお茶やお菓子などを出してくださって、とても嬉しく、わざわざ佐賀まで来たかいがあったと思いました。本当に勉強するのは大学だけではないなぁと思いました。



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