【小城郡三日月町本告、石木、吉原地区】 現地調査レポート 1-14 1EC95247 高見 誠 1EC95253 樗木弘道 本告本告地区には330世帯あるそうだ。昔は30町から35町の水田があったそうだが、その半分近くが宅地化されてしまって、小林さんとその友人森永さんは口をそろえて昔の水田や水路はなくなってしまって、しこ名も分からないとおっしゃっていた。 そういうわけで私たちは「知っていらっしゃることだけでも」と言って何とか昔のしこ名や、今身内で呼んでいる田んぼの名前ではないが、昔の出来事があった場所の呼び名を教えてもらいました。 鉄ぷうやぼうと呼ばれる戦場の跡、今、平井部落と呼ばれる鍋島藩の家老屋敷、戦場の跡と思われる太刀洗川と呼ばれる川を教えてもらいました。 佐賀の鍋島藩は日本史にも出てくるほどなどで、戦争もよくあっていたようだった。今では同じ名字の集まった〜部落は、私之実家の島原にもあまりないのに、まだたくさん残っているのには正直言って驚かされました。このままそういう部落が残って欲しいと思うが、小林さんや森永さんも、他県から本告に移ってきたということで、最近ではそういう人たちが増えてきて、部落がなくなってきているそうです。仕方ないことだとは思いますが、昔のことを伝承する人がいなくなっているのは残念なことでした。
石木石木地区の大坪さんは都合がつかないということで、本告の小林さんが石木地区にはたくさん遺跡があるとおっしゃったので、その中の土生遺跡に連れて行ってもらいました。そこには竪穴住居が二つ、高床倉庫が一つ復元されていました。日本史の教科書でしか見たことがなく感動しました。復元されていた広さはほんの一部でした。 調べたかったことは石木地区にも本当に遺跡が多く、この土生遺跡については弥生中期(約2,000年前)のもので、とう器墓(原文ママ)なども見つかっていました。濃厚集落ということで広さは30万平方メートルにもなるということでした。 土器の中には朝鮮系無文土器があったそうで、朝鮮との緊密な交流がうかがえました。高床倉庫は湿気から守るためのもので、また柱を支える工夫として、地面に柱が沈まないように礎板が用いられていたそうです。
吉原吉原地区については本当に何も得るところがありませんでした。そういうわけで迷惑だと分かっていましたが、その周りの民家の人たちに手当たり次第尋ねてみることにしました。しかし、本当に何も得るものがありませんでした。 尋ねた人みんながおっしゃるみとは同じで、私たちはこっちに来て20年ぐらいで昔のしこ名などは分かりませんとか、年輩の人たちに聞いても宅地化が進んで昔は呼んでいたしこ名も分からなくなってしまったとおっしゃってしました。 仕方なく役場で調べようと思いましたが、休みで手の打ちようがなくなってしまいました。本当に残念でした。この地区にも言えるように、宅地化や昔のことを伝承する人がいなくなっているということは残念なことでした。 しかし、尋ねた人たちの中には温かく私たちを迎えてくれ、「私は知らないが、あそこのおじいさんだったら……」と教えてくれたり、ミカンをたくさん下さったおばあさんもいらっしゃいました。都会にはない独特の温かさが感じられたのが私たちの一番の収穫だったかもしれません。
自分たちは三日月町の本告(もとおり)、吉原、石木の3つの部落に行ってきたが、吉原の香田様にはその日になってキャンセル。最悪の事態となったが、自分たちでいろいろその周りの人々に聞いてみることにした。しかし、数年前の道路改善事業に伴い、その昔のしこ名もほとんど消えてしまっているとのことだった。 同じことが本告でも言える。 本告は新興住宅が建ち並び、そのもともとの土地の人というのもほとんどいなくなり、また、昔、田であったろう場所には「バニーズ」という福岡で言う「マルキョウ」らしき物が建ち、また国道も走っているその周辺に、本告、石木、吉原があるので、昔のしこ名が消えていくのは当然のことだろうということが分かった。 その周辺の人々、社寺、その他を回ったが、みんな口をそろえて言うのが「道路改善事業でね」とのこと。時代の移り変わりを感じた。 また、その地方のことを伝えるべき人が人に伝えることが出来ていないことにも疑問を感じた。 そこで吉原と石木については何も分からなかった。 吉原には香田という名字が多く、石木には大坪という名字が多かったことだった。 また、石木と本告との境あたりに土生(はぶ)遺跡というのがあった。そこには竪穴式住居、高床倉庫があった。また、この地方は多くの古墳があり、至る所に案内があった。そのことから分かるように昔この辺りは栄えており、そしてこの流れが吉野ヶ里からきていることなども聞いた。 |