【小城郡三日月町久米、平井、本告、馬見地区】 現地調査レポート s1-18班 1TE96527 安次嶺 智 1TE96549 小村俊裕 古老は訪ねていません。
はじめに、日程上の都合でメンバーを変更しました。 小城町、三日月町 久米、平井、本告、馬見 ・ 変更前 安次嶺、池田 ・ 変更後 安次嶺、小村
当日の行動 9:00 博多駅集合 9:25 博多駅出発 12:30 小城駅着 13:00〜17:00 調査 17:30 小城駅出発 18:45 博多駅着 終了
まず最初に、田んぼ近くで作業をしている農家の人を探しましたが、発見できませんでした。そこで、とりあえず田んぼの近くに住んでいる森永さん(女性60歳くらい)という方の家を訪ねてみましたが、森永さんは私は農家ではないので田んぼのことは知らないと言われました。その代わりに、近くで農家をしている七島さんという方を紹介してくれました。 七島さん宅を訪問してみましたが、七島さんは留守でした。1:30くらいでした。 また、少し遠出をして農家らしき人を探しましたが、見つけることができませんでした。トラクターが置いてある家を訪ねてみましたが、すべて留守でした。 七島さんをはじめ、その他の農家らしき人の家を何度も訪問してみましたが、いずれも留守でした。 半分諦めて近くのスーパーで4:00まで時間をつぶして帰って来るのを待ち、それでも留守ならば帰ることにしました。 しかし、近くの田んぼで作業をしている、おじさん一人、おじいさん一人を発見したので、仕事中にもかかわらずいろいろいと質問をしました。 お二人は私たちが多くの質問をしたにもかかわらず、いやな顔ひとつせずに、答えてくれました。ありがとうございます。 これから詳細を書きます。 質問に答えてくれた方 松尾実さん(大正15年生まれ) まず、しこ名について尋ねてみましたが、おじさんは知らないと言われ、おじいさんも戦前のことなので、覚えていないとおっしゃいました。そこで、地図を見せたところ、おじいさんは知っている場所で「高見」「深田」「川東」を教えてくれました。 次に、田んぼの水路について尋ねました。おじさんが「このあたりの田んぼはしょうずで地下水が湧いていて、そこをユンボで穴を掘り、水中ポンプで水を汲み上げている。」とのことでした。地図参照(地図省略、佐賀県立図書館所蔵)。 一昨年の水不足の時はどうでしたか? と尋ねると、「その井戸で間に合った。」とおっしゃいました。 村の範囲については、マジックで地図に線を引いてくれました。 戦前には地域によって米の収穫量に違いがあったそうですが、戦後は農地改革によってその差はなくなり、均等になったそうです。裏作については、戦前は乾田と湿田によって、裏作ができるところとできないところがあったそうですが、今でもどこでも裏作はやっいるそうです。戦前の良い田では60〜70ほどの米が穫れたそうです。単位は分かりません。ごめんなさい。多分kgだと思います。また、悪い田でも5俵以上は穫れたそうです。 戦前どのような肥料を使っていたかは分かりませんでしたが、戦後は大豆、油カス、菜種、魚カス、鰯などを使っていたそうです。 今後の日本の農業の展望はないとのことです。 この辺りの田んぼは昔に比べて面積が減っているとのことでした。 私たちが歩いていても付近は住宅やスーパーなどが整備されたいて、思っていたよりも不自由はありませんでした。 しこ名の「深田」の由来については、周りの土地に比べて低い土地にあるので、そのような名が付いたそうです。 調査は以上で終了しました。
感想 JRを使って行ったため乗り換えに苦労しました。現場について話を聞くために七島さんの家を4回も訪ねましたが、全く反応がありませんでした。それ以上行くのも気が引けたので諦めました。 周りの田んぼでは誰も仕事をしておらず、本当に何の情報のないまま帰ってしまおうかと思っていました。1時半頃からずっと歩きっぱなしでしたので、くたくたになりました。30分くらい休憩してこれで居なければ帰ろうと決めて行ってみると、何人か軽トラックで帰ってきていて、ひとまずほっとしました。仕事をしていらっしゃいましたが、時間もなかったので思い切って聞いてみると、優しく答えて下さいました。いい経験をしたと思いました。 今回の調査で学んだ教訓は、恥ずかしがらずに勇気をもって聞いてみようということです。私たちは再調査で以前に区長の所へ行っているので、連絡しないで直接行きました。松尾さんを訪ねなかったらこの調査は失敗に終わっていました。 ただこの調査の意義を十分に理解していないところがあり、もっと事前に勉強すべきだったと反省しています |