【小城郡三日月町三ヶ島、堀江、深町】
〈歴史と異文化理解調査結果レポート〉〜三日月町編〜
L-10 1EC95042■ 片桐太郎
1EC95013■ 石井健二
〈三ケ島〉
水利関係について
水路水源は、現在は北山ダムから取っているようである。そこから西水東水幹線という水路を通じて三日月町に水を引いてきているようである。それ以前は北浦ダムと呼ばれるため池らしきものが水源であったらしい。残念ながらそれはどのような名の水路を使っていたかは判らなかったが、しこなの中には“水道古賀”と呼ばれるものもあったので、補助整備がなされる前にもそこに元となる水路があったのであろう。それぞれの水田への水の引き方は、例の整備によって作られた細かい水路から200メートルごとぐらいにある電動ポンプによって引水しているようである。したがって現在は、水路自体は共有しているものの、整備によって平等に水がいくようにできているため、十分に水路の水が供給されている上では特別なルールは見られないようである。
・水利慣行について
例の整備がなされる前は少々勝手が違ったようである。まだ細かい水路ができる前は水田に水を入れるためには水田伝いに水を入れていったようである。つまり、下図のような具合にいれていく方式を取っていたのである(図省略:入力者)。このため水路から遠い郷ほど水を入れるのに水賂に近い郷の田が満杯になるのを待たなければならず、不利であったと考えられる。特に水不足のときは水路そばの郷が、自分の村まで水が無くなってしまうのを恐れたため、水路から離れた村まで十分な水を出すのを渋ったりしたこともあったようであり、それが原因で水争いが起こったことも昔はよくあったそうである。聞いた話では三ケ島はその北にある“みどり”という集落と水争いを展開したようだが、ご主人の話し方から推測すると他にもたくさんあったのではと予想できる。
つまり地図から判断すると、北にいくほど海抜が高くなるというから、三ケ島より北の集落は、水路から水をくれないという理由で、逆に三ヶ島より南側は、ここでは樋口、深町などが該当すると思われるが、水をあげなかったという理由で水争いが展開されたと考えられる。
・ゴミについて
ゴミについては三ケ島、深町、堀江の三か村どこも答えは同じようなものであった。ゴミについては特刷な決まりはないようで、取りたい人が“かんぴょう”と呼ばれる日本版スコップのようなもので掻きだし自分の畑にいれるようである。つまり取った人のものになるというわけである。但し、ゴミはよい肥料であると同時に雑草の種の宝庫でもあるようなので欲しがらない人もいるらしい。
・村の耕作地について
湿田と乾田について
この村は祇園川のすぐ横にあるため、乾田は整備されるまでほとんどなかったそうである。しかし村全体の取れ高はかなり高かったようである。
祇園川から水田二つ分ぐらい西側からは、一反あたり10表もとれることがあったらしい。ふだんは6〜7表ぐらいの収穫だったようである。逆に取れないところは石が多く水はけがよすぎる川べりと“おおかんばた”“樋口がらみ”と呼ばれるしこ名のところが粘土質が強すぎて悪田となっているようである。悪田は一反あたり5表程度しか取れないそうである。
〈深町〉
水利関係について
・水路
ここもニケ島と同様の水路を使っているようである。つまり北山ダムから西水東水幹線を使って引いてきた水を、細かい水路を通して約200メートルごとにある電動ポンプを使って引いてくるのである。残念ながら過去に使っていた水源と水路の名は聞けなかったが、ご主入の詰から判断すると三ヶ島と同じであると思われる。
・水利慣行について
ここは三ヶ島と同じ水路を共同利用していたため、その水利慣行は三ヶ島のそれとはほぼ同じであった。ただし補助整備がなされる前は三ヶ島が水路のそば(高地)であったのに対し深町は水路からは遠い位置(低地)にあるのでその立場は必然的によわいものであったと思われる。
水争いをした相手は残念だが聞くことができなかったが、この水利慣行から考えると四条、三ヶ島等ではないかと思われる。
村の耕地について
・湿田と乾田について
やはり良田は川(祇園川)より水田二つぐらい西側に集甲しているようである。何でも水田の柔らかい土の下にしっかりした硬い土があるらしく、水がいい具合に調節し易いのだそうである。良田では6〜7表、悪田ではやはり5表程度だそうである。残念ながら詳しい場所は聞き出せなかった。
〈堀江〉
水利関係について・
・水路
ここも現在では北山ダムから西水東水幹線から引いているらしい。しかし例の整備がなされる前は水路の位置からかなり遠い低地だったため、独自の水利慣行がなされていたようである。
・水利慣行について
上記のように水が十分に来ないときは、堀江の両端にある祇園川と西平川から水を直接引いていたようである。そのやり方はかなり変わったやり方で「井手揚」と呼ばれるものらしい。
具体的な方法は、まず川を土嚢で1〜1.5メートルほどせき止め、土手の、高さ50センチぐらいのところにある土管を通じて堀江のたんぼに水を入れたらしい。これをやるときは村人総出で二日間ぐらい働きつめでするそうである。
これからも水田地域では水路に近いほうが圧倒的に有利何だということがわかった。この地図の場合では西水東水幹線を起点として南になるにつれて辛い立場だったようである。故にこの村の水争いの相手は“道辺”という北側の集落であったということが予想され、事実ご主人の話ではまさにそうであった。
村の耕作地について
・湿田と乾園について
この村は祇園川と西平川が合流する手前の村であり、それゆえ整備前は湿田が多かったようである。また低地であり、二つの川の堤防に挟まれ袋小路になっているため、大水で上流のほうの堤防が切れると(三ヶ島の地図に赤で示しているところ)水浸しになってしまったそうである。
地図の上では、堀江の“寺古賀”というしこ名の場所の上に祇園川から西平川まで土手が築かれている。今ではもう無くなっていたが堤防が切れた時、村と水田を守ろうという村人の必死の努力の結晶であったのだろう。西平川のほうに"外海"というしこ名があるのは、堤防が切れたときここに水がたまるからっいたらしい。
だが水害さえなければ、上流からの肥沃な士が大量に堆積しているためか、ここの水田の出来高は高いようである。1994年の干ばつのときも過去最高の収穫をあげたというのだから驚きである。二つの川のちょうど中間辺りが良田とされ、1反につき11表、普通のところですら8〜9表とれるそうである。だが"外海"や"だめだ"と呼ばれる田はその名の通り悪田とされ、一反5〜6表しか取れないそうである。
〈1994年の大干ばつについて〉
この話は一応全村で聞いたが、それぞれの村が個々に対処したというより三日月のすべての集落、というよりは西水東水幹線を使うすべての町とその集落で対処したようである。そのためか、古い水利慣行のようなものはあまり見られなかったようである。
対策としては例の水路を使っている町、つまり大和町、三日月町、久保田町、牛津町、芦刈町の五村で話し合い、それぞれの町の規模に合わせて水量を調整し、更にそれぞれの町の集落ごと、そして更にそれぞれの集落のたんぼ一つずつに至るまでタイムテーブルを作り、平等に水がいくよう工夫したそうである。
三ヶ島に訪ねたご主人が町長さんかなにかだったらしくそのタイムテーブルを見せてくれたが、まさに分刻みで、大変だったということを感じさせた。しかしいくら綿密な計画を立てても、それを守らないで横着しようとする人はいたようである。いくら電動ポンプを導入しても水を入れるやり方は下から上に水を順々にいれるやり方は、必要なところもあり、上の田がなかなか水を回してくれなかったり、逆に下の田が、上の田の堰に穴を開けて水をとろうとしたりしてほとほと手をやかされたようである。ご主人いわく「まさに我田引水ですよ(笑)」。このようなことを防止するためボンプ小屋のところに24時間体制で水番をおいたそうである。
〈感想〉
このレポートを書き終えてようやく肩の荷がおりた気がします。思えば手紙を出した3件のうちご在宅の方は一人しかおらず、しかたなく目にはいる家や人に片っ端からしこ名を訪ねて歩きました。もちろん相手から見れば怪しいこと聞違いなく、半数以上は断られてしまいましたが、今思えばいい人生勉強になったと思います。
朝8時に家を出て8時間近く歩き回り作った調査です。回った家は30軒以上、がんばった量ではどこにも負けないと自負できます。不備な点も多いレポートですがどうか暖かい目でみてやってください。よろしくお願いします。