【佐賀市巨勢町中島、修理田】

現地調査レポート

 

話者:下村 静男さん

水町 忠吉さん(77歳、大正10年生まれ)

三池 善一さん(74歳、大正14年生まれ)

牧瀬 勝さん

吉村 マサミさん

真崎 平八郎さん

 

 最初に佐賀市巨勢町修理田の下村静男さん宅に後日訪問する旨の手紙を出したが、あまりしこ名について詳しくないということで、近所の水町忠吉さん(77歳、大正10年生まれ)を紹介していただいた。

そこで12月19日(日)に現地を訪れることになった。当日は朝9時頃佐賀駅に到着。駅から徒歩で水町さん宅に行ったが約1時間かかった。駅周辺は都会であったが構口の交差点を過ぎたあたりから田が見え始め、中島周辺は一面田んぼでビニールハウスが巨勢小学校付近に2件ほどあった。

10時頃水町さん宅に着いたが水町さんの話で、まずは手紙を出した下村さん宅へ行くことになった。下村さん宅では静男さんと思われる人(55〜60歳位)、静男さんの奥さん、その息子さんらしき人がいて自分と水町さんが家の中へ上がり、まずは地図を見せて田んなかのしこ名について知らないか聞いてみた。水町さんが記憶していたのはサンボンクロキ(三本黒木)、サンボンヤナギ(三本柳)などの小字で、それは各土地の地力(肥えているかどうか)で「マツ」や「ヤナギ」とか「クロキ」に分類されるということだった。しかししこ名についてはどうもあまり知らないらしく、ミジョウド(御浄土)だけをしこ名として聞きとることができた。

結局水町さんではよく分からないということになり、公民館長である三池善一さん(74歳、大正14年生まれ、元学校の先生、三池さんから頂いた名剌によれば佐賀県公民館連合会副会長、佐賀市公民館連合会会長、佐賀市立巨勢公民館館長という肩書きがあった)が詳しいということで紹介を受けた。奥さんは電話番号を調べて一度連絡してみたらという話をしていたが、直接行った方が近い所なのでいいだろうということになり、結局車で行くことになった。車には僕と水町さんと下村さんと息子さんの4人が乗り息子さんが運転した。5分位で着いたが、ちょうどそのとき三池さん夫妻は家の隣の畑にいて下村さんが事情を説明してくれた。

三池さんの話だと昨年も三池さんの所に女性2人組が来て話を伺ったそうである。そして三池さんの家の中へ入って話を伺うことになったがここで息子さんは帰って、僕と水町さん、下村静男さん、三池さん夫妻の5人で話をすることになった。三池さんははっきりした口調で話がとても聞きとりやすかった。反面水町さんの方は聞きとりにくかった

下村さんは三池さんの家では聞き手になって興味深そうに話を聞いていた。そして三池さんは何か古文書風の資料を持ち出してきて、そこに書かれていることを中心に話をしてもらった。

 まず最初に田んなかのしこ名について尋ねた。ただその多くが小字でしこ名と思われるものはあまり出てこなかった。一応それも含めてまとめると次のようになる。

 

<中島、修理田(昔尻田村といった)・田んなか>

ミジョウド(ミ浄土、「ミ」は御か三、文献には三と記載)

タカオダ

ホンムラ(本村)

ゲンチュウジ(元忠寺、昔元忠寺という寺があった)

サノツボ(佐之ツボ) 位置不明だが中島にある

サマヤシキ(1230番地高田さんの所) 位置不明だが元忠寺のそばにあると思われる

イッポンマツ(一本松)、ニホンヤナギ(二本柳)、イッポンヤナギ(一本柳)、シホンマツ(四本松)、ニホンクロキ(二本黒木)、シホンクロキ(四本黒木)、ゴホンクロキ(五本黒木)、イッポンクロキ(一本黒木)、サンボンクロキ(三本黒木)  これらはすべて小字と思われる

ゴノカク、クノカク、ゴノツボ、シノツボ(サノツボの近くらしい)、ジュウノカク  これらも小字と思われるが、三池さんはこれらのしこ名は大化の改新の時の名前の割り当てだと言っていた。その際正方形を6*6の36のます目に区切って、例えば一番上横の列をツボ、二番目をカクとよんだそうである。これらの位置は不明。

 

<高尾・田んなか>

イデンヤマ

ダイワンサン この二つのしこ名は三池さんの田んなからしいが位置未確認

イデ 位置不明

 

 それから文献には「元忠寺のサマヤシキの話」が載っていて、それによると修理田1230番地において明治30年頃今にも金の茶釜が出てきそうになって原ヨウゾウさんという人が田ん中を地下げしたということだった。三池さんはとても面白そうに笑いながら読んでいた。

 また巨勢神社が奈良の明日香にあり、テレビの取材でそれについて調べていたという話も聞いた。巨勢神社の先祖にあたるお宮があるらしいということだった。

そして次に橋やほりの名前などを順番に尋ねていった。

 

<橋>

修理田 ホンムライシバシ

中島  ナカシマ(イシ)バシ(昔はテンジンサンバシと呼んだ)

中島  ヒラオバシ

中島  ヒノクチバシ

以下位置不明

ダイサンハルバシ

ムシナバシ

ゾウガヤシバシ

ウラキドバシ(現在はない)

ホンムラ(本村)イシバシ

 

<ほり>

中島 ナマズボリ

高尾 マルボリ

 

<水道>

この辺りでは水道=クリークの意味で使っている。貯め池兼排水がその役割。

中島 ナガレガワ(山の方から流れてくる。潮の満ち引きがある。クリークのような貯め水とは違ってほりというよりは川に近い。)

 

<井樋>

修理田 オオイビ(大イビ、コイビの北、フクイミノサクさんという人の所)

高尾  マルイビ(丸イビ、大きな木を丸く掘って埋める、今はない)

高尾  オニマルイビ(鬼丸イビ、千住京子さんの家の辺り)

高尾  キュウサク(ナカ)マルイビ(久作・中丸イビ)

中島  ミジョウドマルイビ(三浄土丸イビ、文献には「三」とあるがあて宇の可能性がある)

以下位置不明

タカヤナギマルイビ、イチノツボイビ、ニンザブロウマルイビ、ヨシチマルイビ、ジキチマルイビ、トウコウジマルイビ

 

井樋は家老ナリドミヒョウゴ(成富兵庫)が発明して、巨勢川に井樋を初めて作って、平野に水を引いた。彼は堤防も作った人で石碑も立っている。それから三池さんは井樋のしくみを図で説明してくれた。ほりの中に穴を掘ってそこに板で作られたものを差し込み、大水で排水する時や水が必要な時には板を上げて水の要らない時は下げるそうである。そして、海水をうっかり上げると全滅してしまうため注意して頻繁に上げ下げするそうで、有明海の水は干潮時と満潮時で5メートル差があるそうである。

 

<堤防>

平地なので土手はない。川端の北をオウカン(往還)とよんだ。往還の意味は「大きな道」。堤防そのものが道路の役割をしていて国道のことも往還とよんだ。その国道を馬車が通っていて、4月にはお経祭りがあってそこを通って「ジッソイン」にお参りするそうである。

 

<シュウジ>

中島  ナカシマ(中島)

修理田 ホンムラ(本村)

修理田 カワバタ(川端)

 

<水利>

 昔はクリークだったが今はすべて国営水道徳永線から引いている。井樋は今は使っていないが、昔は大井樋などをよく使っていた。その用水は周辺の家すべてが使うことができた。飲料水、炊事、洗濯、風呂、田の潅漑などすべて生活用水になっていた。飲み水はこし水をして使ったそうである。また水利権はやかましく江戸時代から喧嘩をしてばかりいたそうである。

 クロ川とカセ川から引いたイチノエ川という人工川と巨勢川の間に穴を3つ掘ってみんなが集まり中に砂の入った土俵を作り、その土俵の数も決まっていた。その数を多くしないかどうか監視をする人もいて、これは昭和30年頃まであった何百年も続くやり方だった。3、4月には「水取工役(ミズトリクヤク)」というのがあって人数が決まっておりその人たちが出ていき、こうしたルールを破ると大変なことになるという話だった。今はその土俵にかわって三池さんという人の作った機械があって、降りるようになっておりクリークヘと流れていく。

 また5、6年前の水不足の時三池さんは生産組合長をしていたそうだが、当時既に徳永線ができており緊急な場合にはそこから水を取ろうとしたが、有明海から海水が入ってくると田がだめになってしまうため、それが心配で市役所の人が塩分を調査にきたが、しばらくして雨が降ってぎりぎりもちこたえたそうである。干ばつ時には通称「アオ」といううわ水を取るとよいとされていた。しかし干ばつで塩分の濃いのがしだいに上がってきて、それが田んなかに入り枯れてしまった所もあったそうである。時間給水や他の作物への切り替えもなく、この辺りはほとんど田んぼばかりで最近ハウスが流行っただけだそうである。

昭和10年代には干ばつ時巨勢川に橋をかけて水を引いたこともあった。この地域は全国に稀に見る水郷地帯なので大水には弱いが干ばつには強く、特に佐賀市内でもこの周辺は一番干ばつに強いそうである。

 

<昔米の良く取れるところとあまり取れないところがあったのか>

 地力(肥沃度)の違いであったらしい。〜松,〜柳のどちらかが良く取れてもう一方があまり取れなかったらしい。またこの地方の田んぼの中には階段のように3段に段差のついている田んぼがあったようで一番上が「本田」、一番下が「水イエ」とよばれ、真ん中の段はいくらつくっても税金がかからなかったらしい。ただし段差があるため機械が使えない。奥さんは圃場整備していなければ巨勢川の南西の方にあるかもしれないと言っていた。

 また収穫の時、稲の積み方が決まっていて、稲6株を一段にしてそれを四方形に積んでそれを侍が見に来るそうである。もし一段でも取ったらものすごくひどい罰があったらしい。終戦前は政府に米を納めないといけないので、不作の人は夜に他の人の物を取ってきて積み直した人もいたらしく、江戸時代は見つかったらはりつけだと言っていた。また稲の乾かし方が独特で、他の地域では竹で干すがこの地方では「小包」で包んで乾かすそうである。

 この地方ではほとんど麦の裏作ができる田で、転作によって現在は大豆も作るそうである。戦前は一般的にはいわしのしめかす、あとは人糞尿などを肥料にしていた。また同じ稲でも早稲を始めに植え,何週間か後にオクテ(番頭)を植えたそうである。そうしないと水が上げきらないからである。潅漑の導入により一回でできるようになった。

化学肥料は昭和初期に入ったが、それ以前は品種によって違うが、山川という人が発明した全国一のものは10俵位取れたそうで、新品種となった今は良くても8俵位がやっとで、通常は5〜7俵位だそうである。

 

<電気やガス>

 電気は大正末、プロパンガスは昭和30年頃来た。それ以前は石油ランプを使っていた。

 

<風呂を焚<燃料をどこから取っていたか>

 百姓は田んぼに植えていた柳があったのでそれを切って使った。町の人は薪屋から買った。薪は以後石炭、石油、そして現在のガスや電気に取って代わられた。

 

<米を農協に出す前の時代はいつ誰に渡したり売ったりしていたか>

 仲買人さんがいて毎日変わる米相場に応じて1年中売っていたそうである。

 

<その他>

 小作人がいて、地主との関係は簡単にいえば社長と従業員の関係で地主に頭は上がらなかった。また家族で食べる米はハンマイ(飯米)とよんだ。家族で食べる米はもみのまま玄米で保存して、食べるときに脱穀して精米所で精米した。翌年に必要な種籾はどんな場所にでも保存した。ネズミ対策としては玄米を缶の中に入れた。それ以前は籾俵に入れた。

戦争前後の食事の内容は米どころなので、白米中心で少しだけ大麦を入れるくらいであった。ひえ、あわ、いもを主食にすることはなかった。農業以外の現金収入は野菜を売ることや出稼ぎであった。

動物に関しては、牛は少なく馬が各家に1頭か2頭いてオス、メスは決まっていなかった。博労という馬の仲買人はいた。そしてどこの部落でも共同の馬洗い場や馬捨て場があった。

道については隣の村へ行くための小さな道はいくつもあり、日用品、必需品が運ばれてきた。

またこの地方は神様が多く、一番多いのが天神様でその他に稲荷様や八幡様というのがあった。部落ごとに祭りがあって、一般的には12月の第一日曜日に集落ごとに村祭りをし、この辺りでは巨勢神社でするそうである。15,6人が参加し、昔と形態は変わらないがだんだんやらなくなっている。具体的には(お)茶こう,観音こう,地蔵こうというのがある。

 

<テレビも映画もなかった時代特に若者は何をしていたのか>

 映画は昭和初期だったが、昔は田舎参りの旅芸人がいて幕をはった劇場を開いていた。その他には祭りも若者の楽しみの一つであった。一方子供の遊びはたくさんあって、こま回し、たこあげ、ビー玉、めんこ、竹馬、釣りなどである。この辺りには若者が夕食の後に集まる場所はなかったが昭和初期のある所には青年集会所があって、そこに先生が来て寝泊りする習慣があった。少し離れた所では,若衆宿というのもあった。よその村の若者が来ることは全くないわけではないが、夜這いを防止するために妨害する人も山間部にはいたそうである。よその村の人が酒を持ってくることはなかった。

 最後に構口のことも尋ねてみた。三池さんの持っていた地図が作られたとき(おそらく明治の頃)には民家は―件もなく、構口に部落ができたのは大正初期だそうである。文献にはかなり広い地域を一括して一本松と二本松としてあった。水町さんの話で構口付近にある「ミセキ」というしこ名らしき名前を聞くことができたが、細かい位置は不明。巨勢のことで一番詳しいのが三池さんでそれ以上詳しい人はいないと言われたが、前の自治会長である牧瀬勝さんを紹介してもらった。三池さんの家に2時間ほどいたが、その後牧瀬さんの家まで下村さんに車で送ってもらった。

 

 

 牧瀬さんから教えてもらったしこ名の数は少なかった。

<田んなか>

シマノナカ(今はもうこの田はない)

<ほり>

マルボリ(今はもう埋まっていてない。今は埋めてはいけないが昔は埋めても良かったので) 位置不明

モリノシタ(昔森があったので)

 

<橋>

カマエグチバシ

 

 三池さんから聞いた「ミセキ」という名前は、田んなかのしこ名かどうかわからないが、参勤交代のあとらしいと牧瀬さんは言っていた。牧瀬さんは昔の道についてよく知っていた。この辺りをかつて長崎街道が通っており構口〜牛島〜高尾とつながっていた。それが参勤交代の道となっており、長崎街道としては佐賀の中では一番長く残っているらしい。そして前の市長さんは長崎街道で催し物をするために、水道のマンホールのふたを特注して篭を担いだりして2,3回やったそうだがその後はもう全然無く,佐賀の町おこしも廃れてしまったと嘆いていた。行政そのものがそういう気持ちがなく宣伝もしないと牧瀬さんは言っていた。長崎街道は、今は田んなかの中にあったり個人所有の小さな道になっているらしい。周りに木も生えていたがもう枯れてしまったという話だった。

 

 牧瀬さんからは以上のような話を20分ほど聞いたが,構口では田んなかがもう埋まってしまい、農家のお年寄りももういないらしく、生産組合長の吉村マサミさんを紹介してもらった。しかし地図で教えてもらった所にはどこを探しても吉村さんの家はなく、辺りを歩き回ってかなり時間を使ってしまった。しかたなく本屋で住宅地図を立ち読みしてようやく吉村さんの家にたどりついた。吉村さんはちょうど近所の人と二人で立ち話をしていた所で、さっそくしこ名のことを尋ねた。

 

<牛島・田んなか>

ゴケン(近くに五ケン川がある)

トキバ

イシイデ

オオイデ

ダントウ(段当)

ウメギ(梅木)

ゴタンカク(田んなかが五反あるので)

 

<牛島・ほり>

ゾウカヤシ

 

<牛島・橋>

ナマズバシ

 

 以上のことを聞いた後、生産組合長の真崎平八郎さんの家を訪ねた。そして真崎さんの家に近づこうとしたときにちょうど自転車に乗った三池さんが通りかかった。三池さんは、真崎さんは養子でありあまり知らないかもしれないと言った。またかつて近くを鉄道が通っており、今は近くに団地ができる予定だと言っていた。その後正木(ママ)さんに声をかけ、話をしてもらった。

 

<牛島・田んなか>

ムコウガク

アシワラ(葦ワラ)

ガランサン

 

ここまでで4時半くらいになり、また歩いて駅まで行って帰った。紹介された人をたどっていった結果、結局構口を詳しく調べることができず牛島の方しか調べられなかった。



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