現地調査レポート/佐賀市巨勢村/平尾・道崎 <調査者> 神武洋二郎 杉浦裕義 <平尾・道崎> 田ん中のしこ名はけっこう集まった。堀やしいど橋、井樋などのしこ名は特になかった。(国道264号線はえみしぇんと呼ばれていて、昔長崎街道であり参勤交代の時通る道であった。) この地域の水田にかかる水は北山ダムのほうから「いちのえ水路」と呼ばれていた水路からクリークにひかれていた。この北山ダムができる前はクリークの底を深くして容積を深くし、そこにためた水を使っていた。田の中の排水は佐賀江という水路に、最終的には筑後川に流していた。しいどは現在地下に埋めてある。 この地域は「あお(筑後川の潮位によって増えた淡水をとること)」は使っていない。(この村よりもう少し南の村から使い始める) クリークのゴミは昔は田を使わない冬にゴミざらいをして、そのゴミを肥料として使っていた。現在はこのゴミざらいはなくなり、化学肥料を主に使っている。(昭和30年代まではあり、それ以降は化学肥料。クリークはゴミがたまり汚くなる一方だそうだ)一昨年の未曾有の旱魃の時もクリークの水が無くなるということはなく、水道水も時間給水や断水はなく、大丈夫だった。日照りのときは、クリークの水は日割で配分していて、例えば今日は巨勢の方に流し、明日はひょうごの方に流す、といったふうにやっていた。もし、2年前の大旱魃が30年前の出来事であったならば、どうなったと考えますか、と尋ねてみると「たぶん大丈夫だっただろう」という漠然とした答えをもらったが、やはり、クリークの存在があったからだと思う。 〔感想〕 自分たち二人だけで平日に調査しに行ったので、家にあまり人がいなく、老人の方もなかなかつかまらなかった。特に道崎のほうは、生産組合長が家にいなく、その他の家の老人の方もあまりいなく、しこ名は集まらなかった。その時、巨勢公民館の館長がここいら一帯の地域の歴史を調べているという情報を得て行ってみたが、館長不在のため話を聞くことが出来なかった。その館長が発行している公民館だよりを手に入れることができたので、一緒に提出しておきます。 この地域は田んぼが多く、昔ながらの家や寺があり、懐かしい情景であった。途中、亀の死骸やウシガエルのペチャンコになった死骸などがあり、また、クリークには魚もいて、子供心に戻り思いっきり遊びまわりたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえて調査に専念した。今度私用で遊びに行きたいと思う。 本当に歩き回りましたが良い成果が挙げられず、すみませんでした。 |