現地調査レポート/佐賀市巨勢村/東分上・東分下

 

<調査者>

斎木朗

茂田剛

 

 

佐賀市巨勢村<東分上、東分下>

末次嗣郎さん(75歳)大正9年生まれ

 

<しこ名の一覧>

・田  ごんやしき・ぜんもん田・ひさずみ・二丁田・きたがしら・八反角・柳原

    だいぞうやしき・だんとう・二反田・三十五・やまうら・ごんげんさん前

    はたけだ・えんつうじ・かっぷ・きたうら

・堀  うまぼい

     井樋 まつばき・さやもと・やまうら・三十五

 

<当日の行動>

 東分上について、草刈をしている人にしこ名について尋ねると、名前は知っているが場所がわからないというので、改めてしこ名について詳しい人を探しているうちに、秋山さんという人が詳しいという事を知り、秋山さんの家に行った。しかし、秋山さんはあまり覚えていないと言われ、代わりにおばあさんが、昔の自分の家の田んぼのしこ名を覚えていてくださったのでそれについて聞いた。そして、もう一軒しこ名について詳しく知っている人がいると聞いたので、その家に行くと留守だった。そこで、東分上は後回しにして東分下に行った。

そして、一軒、一軒回っていき、留守の方や知らないという方が多かったが、やっと末次さんという方がよく知っていると分かり、東分下や昔のことについて詳しく教えてもらった。ついでに東分上の事について教えてもらおうとしたけど、それはちょっと分からないと言われたので、留守だった東分上の家に行った。しかし、また留守だったので東分上のほとんどの家を当たってみたけど、知っている人は亡くなっていたりして、知っている人はいなかった。それから、もう少し頑張ってみることにし、3時半くらいにもう一度留守だった家に行くと、今度は留守中ではなかったが家主さんは知らないと言うので、ここで調査を終えた。

 

     村の水利のあり方について(末次さんの話)

水田にかかる水は焼原川で、溜池とかはなく、4つの村で共有していた。水争いなども起きていたようで、内容としては水が足りないとかいう問題ではなく、水を下流に流しすぎなので、上流の人にあまり水を流すなといって上流の農家と争っていたようだ。淡水については68月にかけて、大潮の日に時間は足りない水の量に応じて、「いぬお」の「いび(井樋)」から、今の生産組合長さんの家の人が取り入れた。その手当ては、田んぼの反数によって農家が負担した。

一昨年の旱魃について尋ねると、北山ダムの建設によってそういう心配は全くないとのことだった。30年前に旱魃が起こったらどうなったかと尋ねても、旱魃は経験したことがないのでよく分からないと言っていた。

 

     村の耕地について

 乾田・湿田はあり、米が良く取れる田とそうではない田の差はその土地のせいではなく、その田における人の手のかけようによって差が生じた、と言っていた。戦前、よく取れる時は1反当り78俵でそうでない時は5俵くらいだそうだ。肥料はたい肥で馬により田んぼにまいていた。

 

 

 



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