【佐賀郡川副町小々森、道免地区】 中世の村と人々レポートなし。 D-15班 SU-1 1AG94240■ 三原崇史 1AG94267■ 吉岡稔秀 1AG94271■ 吉田 匡 私たち3人はバイクで11日に朝早く行ったのでけども、雨のためにけっこうはかどらず、帰りは夜になってしまいました。 まず私たちが行く場所には代表者の方の住所が分からなかったので、手紙が行っていませんでした。だからそこの村の家々を一軒一軒訪ねてみました。 最初に先生から頂いたマニュアルどおりに聞いていきました。「あのお、九州大学の学生なんですけど、圃場整備が行われる前の田ん中のしこ名についてお聞きしたいんですけれど、よろしいですか。」 そう言ったら60才くらいの人はだいたい覚えていないとか知らないとかおっしゃったけれど、古老の方の家に行ったときは、まあ上がってくださいとおっしゃってくれるなど大変親切に相手をして下さいました。そしていろいろいとしこ名を聞いたりしてだんだんとなごやんできたときにホリやゴミの所有権や水をどこから引いているかなどについて聞いていきました。2箇所しかまわれなかったけれども一つ一つについて報告します。 小々森(マニュアルによれば(二)の平野、旧干潟(クリーク地帯))大坪桓太さん 大正2年生まれ 82才。 田ん中のしこ名 めいきゅう くろべえ ごろべえ めおとばし にちょうぶん いっすぎさん でんとこ いんとこ こうじ しちょう べー かんべい とんのさき せんげん 千本竹 のように主に昔の人の名前やその地形などによって名付けられていたそうです。 ホリやゴミの所有権のあり方 昔はホリに溜まったゴミは肥料となったので所有権というものはかなり大事だったそうです。それでホリの所有権というものは、そのホリの北側の人にあったそうです。 村の水利のあり方 海の水が、クリークや筑後川に満潮で上がってくる真水をためてとる。アオとりゆびというものがあったそうです。マニュアルどおりにいくと、堰があって夏の間(6,7月〜8月ぐらいまで)に、川副町の人皆でやっていたそうです。 ホリのしこ名について ホリのしこ名はそこにある田ん中のしこ名を使っていたそうです。 村の境界 村の境界は地図に書き込んでいるように(地図省略:入力者)、お尋ねしたけれどもその境目のホリなどの名前までは分からなかった。また、村共有山林はないそうです。 木村トシエさん(79才)に聞いたこと 田ん中のしこ名 かんせい かさえ 北田 さでんとこ みまいで みぞぶち ちょうべん にしかん そんなに訛りはなかった。 ホリのしこ名 やっぱりこの方の家もそこの近くの田ん中のしこ名を使っていたそうです。 道免(マニュアルによれば(二)の平野、旧干潟(クリーク地帯))村の人の話を聞いて村の区長である川原田芳秋さん(昭和11年生まれ)から聞いたこと。 田ん中のしこ名 まえだ こうのえさん こうのわき けんどうばた わらすぼう 昭和 平和 ふくどう はっちょうぼ さんげんや さんかく じげっさん やきば 村の田代益喜さんに聞いたこと 田ん中のしこ名 みやわき かのえうら かのえざき おしょうけ たいほう だいじゅう 一本松 でらんうら 二人の方によればほとんどが場所によって決まっているみたいで、「けんどうばた」はそのまま県道沿いで村の人皆も言っているそうです。外にも「昭和、平和」などがあり、「やきば」は昔近くに火葬場があったそうです。「こうのわき」も学校のそばにあったそうです。 また一本松は目印になる松が一本たっていたからそう言うようになったそうです。 ホリやゴミの所有権のあり方 ゴミはここでも肥料になっていたそうです。だから所有権、つまりホリの所有権は、狭いホリはそのホリがついた田ん中の人の物であり、広いホリは半分に分けてあったそうです。 それでゴミは毎年春に「ゴミくい」と言ってつるべのようなもので掬って何日間かおいて乾かしていたそうです。その後、それぞれの田ん中にまいたそうです。 因みに区分区分で区切って水を抜いてからゴミを掬っていたそうです。 村の水利のあり方(筑後川) ここも小々森と同じでアオとりゆびがあるそうです。上流から下流に流れてくる水と、海から上流に流れていく潮水がたまるとき(満水したとき)に真水になる。これをバケツで1回1回掬って塩の度合いを調べて真水だけをとる。 ここも夏の間だけで大潮、小潮が月のうちに何日かあるので、これを一週間ぐらい続けるそうです。しかし、1日に2〜3時間だけだそうです。今もやっているそうで、北山ダムからの水も使っているそうです。 ホリのしこ名について うるわせ マーボイ うまりーぼい レンボイ このような4つだけしか聞き出せなかったけれども「うまりーぼい」というのは馬を洗うのに使っていたらしく、だんだん深くなっていく坂のホリになっていたそうです。 また「レンボイ」も蓮の花が連なっていたので名付けられたそうです。 村の境界 地図に示した通りであるそうだが(地図省略:入力者)、どの道とかは聞くことができなかった。 また道免の人は部落の規模が狭いために大部分の田ん中が道免地区の中にはなく、他の地区まで出作していた。出作していたもう一つの理由として道免の人は他の地区の人と違って二丁の田ん中を持っていたため、田ん中が道免に足りなくなったからだ。Cf:普通の地区は一人一丁である。 今年は北陸、東北地方で水が多すぎ冷夏のため、また米の輸入をするかが心配で昨年のようになるのだろうかと言っていらっしゃいました。(区長さんの話による) 最後に 時間の関係で2つの地区しか訪問することができなかったけれども、何とか一通りは聞けたと思います。だけど佐賀の人は大変親切だったので、思っていたよりも楽しかったです。 |