【佐賀郡東川副町船津新村、重久地区】

現地調査レポート

1MD96042 古賀由希子

1MD96078 堀川 ゆき

聞き取りしたおじいさん、おばあさんについて

 辻功さん

 迎さん

 西村忠雄さん夫妻

 糸山さん

 西村さん

 その他、農作業をしていた人々

 

船津新村

コミチバタ

トウノモト

ホンガク

オオゴモ

ドウメザキャ

 

田畑

小字三本柳のうちに

小字一本黒木のうちに

コミチバタ

ホンガク

オオゴモ

トウノモト

ドウメザキャ

重久

クロベエ

ドウメブン

 

田畑

小字三本黒木のうちに

クロベエ

ドウメブン

 

行動記録

23日 バスを降りまず重久に行った。重久に着くとすぐ散歩中の古老を見かけしこ名について訪ねた。初めての佐賀弁に最初は何をおっしゃっているのか全くといってよいほど分からなかったため、多少不安に思ったが、しばらく話をするうちにだいぶ分かるようになってきた。

 おじさいさんは辻均さんという方で自称村のことなら一番詳しい人物であった。しかし辻さんはしこ名については一切ご存じなく、重久の村で自分が知らないことは誰も知らないので他の人に聞いても無駄であるとおっしゃった。

 しかし辻さんはとても親切で気さくな方であった。そして本当に様々なことをよくご存じで私たちに話して下さった。

 しこ名についての情報が得られそうになかったので、水路のことについて尋ねてみた。すると、辻さんの表情は厳しくなり、次のようなことを話して下さった。

 筑後川から水を引くためにダムを建設する際、佐賀市は最初参加せず資金を出さなかったが、後になってから参加したそうだ。その際、佐賀市は人数にかこつけて事を行ったらしい。辻さんは「数の暴力」であるとおっしゃっていた。「民主主義のよしあしだね。」辻さんは何度も何度もおっしゃった。

 そして村の水のことを何も知らない大学生の役人たちが何も分からずに川を整備しまっすぐにしたために、アオが入らなくなったとおっしゃっていた。水のことを何かをする際にはその村の水のことをよく知っている人物が関与しなくてはならないのだ。大学出の役人たちは頭はよいかもしれないが、何も分かっていないのだ、と声を大にしておっしゃっていた。そしてやり方が汚い、本当に腹黒いと何度もおっしゃっていた。辻さんがそれだけ熱心に村のことを考えておられることが私たちにも伝わった。

 その時お前たちも佐賀から来たのだろうと辻さんがおっしゃったので、「福岡からです。」と答えると、少し辻さんの表情が柔和になった。私たちのことを佐賀市の人と思っておられたようである。

 そして辻さんは自分が武士の家系であることや戦争のことについて話してくださった。そして刀や鎗を見せてやるからとおっしゃって私たちを辻さん宅へ招いてくださった。それまでもはや、かなりの時間がたっていたのだが、その後辻さんの若いころの写真も見せて頂いた。軍服を着て馬に乗っている写真など、とても凛々しく現代の若者にはない気品のようなものを感じた。また刀で人を斬るときのこつや、鎗の刺し方を教えて下さった。何事をするにも腰を入れないとだめだとおっしゃっていた。そして腰のすわった女は怖い、とても男ではかなわないとおっしゃって、大笑いされた。

 その他、佐賀藩は火縄銃を使用せず、弾丸をこめる銃であったため、雨でも使用でき、とても強かったことや、さらに歴史をさかのぼって参勤交代の話など本当に書ききれないほどたくさんのお話を聞くことができた。

 最後に辻さんが自分が昔のことを語るのは本当に久し振りのことだとうれしそうにほほえまれたのを見て私たちは数時間に及ぶ正座のために感覚がなくなっている足のことさえ忘れるほど和やかな気持ちになった。

 しかし辻さんの家が武士の家系であることさえ、この近所の人は知らないし、各家が自分の家系のことについてもう何も知らないのが現代の現状であると辻さんは寂しそうにおっしゃっていた。私たちも家系のことについて何も知らない。このようにお年寄りの話が代々語り継がれることがどんどんなくなっていくために、しこ名も消えてゆくのだろう、と感じた。本当に貴重な話を聞くことが出来、やはり私たちは幸運であった。

 辻さん宅に長居をしたためもう時間がなくなってしまったので(しかし、しこ名は一つも得られず)、私たちは26日に再び調査することにした。

 26日。日曜ではないので農作業をしておられる方が数名おられた。今日は一つでも多くしこ名を得なければならないと思い、たくさんの人に尋ねてみた。

 一人のおばあさんがサイダーを下さった。佐賀の人は皆心優しい人たちばかりだ。そのおばさんが迎商店のおばあさんを紹介して下さった。迎さんは頭が切れて物知りだということなので、迎さんを訪ねてみた。向江さんもあまり知らないとおっしゃっていたが、それでも少ししこ名を得ることができた。

 その後、重久で尋ねた人々からしこ名を得ることはできず、船津新村へ行った。

 そこでも数名の人に尋ねてみたがしこ名を得ることはできず、私たちがお年寄りに声をかけるつもりでも、「しこ名のことは年寄りに聞かんと分からんよ」と言われてしまう。

 そしてあるおじいさんから西村さんという97才のおじいさんに尋ねるとよいと言われ尋ねてみたが、そのおじいさんも知らないとおっしゃって、すぐ家の中に入って行かれた。

 途方に暮れて児童公園のベンチに座って休憩していると、かなり年輩の方が自転車で横を通過されたので急いで後を追いかけてしこ名について尋ねたところ、やはり知らないとおっしゃったのだが、「ばあさんにもきいてみよう」とおっしゃって家の中の奥さんを呼んで下さった。(西村夫妻)

 西村のおばあさんは最初は「分からんねえ」とおっしゃっていたが、時間がたつにつれて徐々に思い出されたようで、数個のしこ名を得ることができた。

 さらに2軒隣の北村サヨさんというおばあさんが船津新村の部落の出身なのでそのおばあさんに尋ねるとよいと言われて、私たちにも一筋の光が差したような気がした。

 しかし北村さんは老人施設に行かれていて4時過ぎにならないと帰れないと言われてしまった。案の定、北村さんの玄関には届けられたお歳暮がそのまま置かれており、北村さん一家の留守を物語っていた。

 私たちは北村サヨさんにすべてを賭ける思いでサヨさんを待った。そして415分ぐらいに老人施設のバスがやってきた時、私たちは喜んでバスを追いかけた。が、サヨさんは乗っていなかった。そして日も暮れ、私たちはサヨさんに会うことはできず、帰ったのであった。

 佐賀の平野に沈む夕陽は真っ赤でとてもきれいだった。しこ名は思ったようには集まらなかったが、たくさんの人々に触れ、私たちにとっては有意義な時間だった。

 

 



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