【佐賀郡東川副町船津西、船津東地区】

調査した学生

1MD96020梅木漕孝

1MD96030賀来典之

 

1222(日曜日)、貧乏学生梅木は従兄弟に車を借りるため、9寺に室見へ向かう。(もちろん自転車で)940分ごろ、賀来を迎えにいく。

高速を使わなかったので2時間以土かかった。

12時半ごろ現地に到着。村一番の古老を求め、二人の旅が始まる。米屋のおばさんから古河さんの存在を教えてもらう。「隣のビニールハウスにいる。」と言われて外を見ると、はるか彼方にビニールハウスが見えた。車で来て良かったと二人でよろこびを分ち合った。

古河さんのおじいさんは親戚のうちに行っており「明日にならないと帰ってこない」と言われショックを受ける。しかし、妙福寺の隣に住む御厨さんを紹介してもらう。.

午後1塒、御厨さん宅を訪問。

御厨稔さん:昭和2年生まれ。

かなり長い時間話してくれた。お茶も出た。

水と区画整理について話してくれた。

 

1 水について

八田江川には2つのイビがあり、下流のほうにあるのが「八田江川淡氷導入井堰」。上流の方は「船津の井堰」と呼ぶ。

干ばつの時には

八団江淡水導入井堰を閉める。

水位が増す。

船津の井堰から水を引き入れる。

という仕紐みに,なっている。

八田江井堰は2,3年前まで使用していたが、現在は使われていない。

―――――漁協の反対があった。

なぜ反対したか?

有明海が満潮になると潮水が川を逆流してくる。

井堰を閉じるとそこで逆流がストップしてしまう。

すると、井堰より下流に泥が溜まって魚が捕れなくなってくるというのが、漁協の言い分らしい。

漁師との話し合いは昔からあったが、我々の想像するような村同志での水争いはなかったということです。

 

排水の慣行

近隣の村同士で話し合い耕地面積に基づいて排水量を決めていた。これは閉じることのできる井堰の数、時開に反映される。

 

2 区画整理について

プラス面

今は小さな堀はなくなり、田もきれいに区画整理され、クリークが碁盤目状にはしっている。そのため、大型機械の搬入、搬出が容易にでき、農作業の機械化も進んで、仕事の能率も大幅にアップしたそうです。

マイナス面

今は昔と違い、北山ダムから佐賀市内を通って幹線水路で水を引いてきているのだが、「幹線水賂は三面水路だから良くない」といっていた。

*三耐水路とは

コンクリートで両側面、底の三面を固めている水路のこと。

なぜ良くないのか?

・自然放水ではない……水量調節を行っている。昔は自然放水だったので水が停滞することなく、常に流れており綺麗な水だった。

・幅が狭い……水量が少ない。下流のほうは広くなっている。

船津よりもっと下流の地域に水を運ぶのが目的で作られた水路だから幅も狭いし、いざ水が欲しいという時に水を供給しセくれるのか当にならないらしい。

・段差がない……昔の水路は殴差が有り、水もち(水の溜まり)があった。そのため、多少の日照りは容易にしのぐことができた。

腰も曲がっておらず、恰幅のいい、かくしゃくとしたお爺さんでした。田を見て回っていたとき、自転車に乗った御厨のお爺さんを見かけ、走って追っかけ聞き忘れた事を聞いたのですが、いやな顔ひとつせず、親切に教えてくれた優しいお爺さんでした。

 

御厨さん談

しこ名一覧

村の名前

船津(西)

田畑

小字(イッポンクロキ(一本黒木)

アミホシ(網干)、タテボイ(立堀)

イッチョウイビ(一丁樋)、シンボイ(新堀)

ナカノショウジ(中小路)、ヤナギシ(柳岸)

ニチョウイビ(二丁樋)、デイヅイ(堤土井)

使用している用水の名

幹線水路

用水源

北山ダム

共有している他の村

近隣の隣村すべて

昔の配水の慣行、約束事

八田江淡水導入井堰を閉め、船津の井堰から導入。耕地面積に応じて井堰の開閉を話し合いで決める。

昔の水争いの有無

全くなし。但し、漁協(漁師)との話し合いがあり。(後述)


八田江川を渡り、東側の取材に向かう。2時過ぎに秀島さんというかなり高齢のお爺さんが居ると野良仕事をしていたおばさんとその息子さんに聞く。

3時 名前を忘れ「?島さん」とだけは覚えていたので、間違って副島さん宅にお邪魔して.しまった。

副島薫:昭和2年生まれとそのお婆さんの話

(以下、問答形式)

この辺りの田にできの差はあるんですか?

昔はあった。チーグミ(地図参照。地図省略:入力者)と呼ばれる辺りが水捌けが悪く、とれが悪かった。今は区画整理で画一化されているよ。

化学肥料を使っていますか?

使っている。

使ってみてどうですか? 化学肥料を使うと土が痩せると聞いたのですが?

化成肥料(化学肥料のこと)を使うと取れ高は確かに上がる。また、ほかの肥料(藁や大豆の葉など)、に比べ、手聞が掛からなくてよい。

化成肥料を使うと土が酸性になるので、1反当たり100kgの石灰を撒く。

それも、麦を撒く前に。

 

おまけ

副島さんの話だと、「区画整理で数多くの堀や小川をつぶし、田や道にした。その結果できた田は、夏の盆に来ればすぐ分かる。」ということだ。昔からある田に比べ緑が濃く、緑のラインがくっきりと分かるらしい。

御厨さんと異なり、かなり記憶が怪しそうだったので秀島さんにも聞くことにした。(副島さんの隣の家だった)

 

4時 秀島さん宅を尋ねる。

 

秀島茂男さん夫妻:明治43年と大正3

まず、「田のしこ名に調べてるんです。」と言うと、「わしのような爺さんをみつけるのは大変だっただろう。」と労いの誘葉をいただいた。今ではしこ名などに詳しいのは、秀島さんと裏に住むもう一人の秀島さんぐらいだとおっしゃっていた。

 

堀、橋についてのお話

昔は、小学校の前を南北に走る堀のことをシンボイと言い、今では幹線水路になっているということです。また、タテボイという堀もあったそうです。

(地図参照。地図省略:入力者)船津新村の前を東西に走る堀に橋があり、ひとつがネコバシ、もうひとつがミッツバシです。(地図参照地図省略:入力者)ネコバシは泥橋で、丸太に泥を塗ってできていたそうです。また、ミッツバシは二本しか橋が架かっていないのに、三つと言っていた不思議な橋だったそうです。

水は昔から川上川から多布施川、そして市内を通って船津まで来ているそうです。昔は足踏み式の水車で水を田に入れていたそうです。

田について

船津は上田ばかりで田の善し悪しは村内ではほとんど差はなかった。

―――――隣の副島さんとは異なる見解である。

 

肥料について冨

昔は干鰯、油粕、糞尿、あと駆除した害虫の死骸まで使っていたらしい

 

*害虫駆除のおもしろい方法

農薬などなかった頃、どういう方法を取って、いたか? それはましん油あるいはなたね油(お爺さんとお婆さんで種類が異なる。お互い言い張っていた)を田に撒いて稲をほうきで叩く。すると、虫が落ちるが油が浮いているため虫は沈んでしまい溺死する。

 

化学肥料について

化学肥料を使うようになって取れ高は大幅アップした。

)1反当たり56俵―――――今):1反当たり78俵。

(最高10)取れるようになった

ただこれは、化学肥料だけでなく、晶質改良などの成果でもある。

 

品質改良

)レイホウ、シンザン―――――今)ヒノヒカリへと変わった。

どういう改良か?

害虫、寒さに強くなったこともあるが、この辺りは昔から風が強かったので、大風に強い背の抵い稲を開発したそうです。

 

明治、大正、昭和、平成と4つも生き抜いたことを自慢されていたが、その分記憶も薄れてそうだうたので、もう一人の秀島さんにも取材したかったが、パチンコに行かれたまま、6時まで待ったが戻ってこなかった。

 

感想

真っ暗になり、小雨がぱらついてきた時には寂しさの余り本当に涙が出そうだった。秀島さん宅から車までの道程は本当に寒かった。しかし、お爺さんやお婆さんに取材するのは、ずいぶん楽しかった。方言がきつくて何度も聞き返すことがたびたびであったが、いやな顔ひとつせず答えてくれた。また、古老をさがすうえで、道端でいろんな人に声をかけたが、みなさん丁寧に教えてくださった。田舎の人の素朴さ、暖かさに触れることができ、寒く辛い課題だったが、おもしろい一日をすごす事ができた。

 

副島さん、秀島さん談

村の名前     副島さんは全部ひっくるめてウーゴモイ(五本柳)と言っていた。

船津東

しこ名の一覧

田畑

小字二本杉

タッデイ

小字四本谷

ショウゲダイ、トウノモト

小字ウーゴモイ(五本柳)

コミチバタ、チーグミ、デンサキ

水路

タテボイ(立堀)、オーゴモイ、裏ノーゴモイ、シンボイ(新堀)

ネコバシ、ミッツバシ

昔の配水の慣行、約束事

西川副小学校前を流れるシンボイから導入

昔の水争いの有無

ナシ

使用している用水の名

幹線水路

用水源

北山ダム

共有している他の村

近隣の村全て

 

 



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