【佐賀郡川副町久町、広江東地区】 歩き、み、ふれる歴史学レポート S1-31 1AG96241■ 矢野沙織 S1-31 1AG96258■ 吉川沙織 教えて下さった方 大塚さん(女性) <久町> 竹下琢磨さん:昭和16年生まれ <広江東> 鳥谷一男さん:昭和3年生まれ <広江東>
10:30に現地に到着。まず広江東の調査を開始する。大坪幸雄さん宅に行ってみるが、お婆さんが出てきたけれど忙しいとのことで断られた。次に野本健輔さん宅に行ってみるが家の方は留守で、小屋で忙しそうに仕事をしていらっしゃったので尋ねることができなかった。 それから久町のほうの調査を開始した。庭の手入れをしていたおじさんに尋ねてみたところ、一本松の場所を教えてもらった。しかし、畑を作っていないのでそれ以上は分からないと言うことだった。 *一本松の風景写真添付(省略) また歩いていると家の前で洗濯物を干しているお婆さんに尋ねてみたが、畑をやっていないので分からないということだった。2軒ほど畑をやっている家を教えてもらった。その内の1軒は留守だったが、もう1軒にはお婆さんがいたので教えてもらうことができた。 そのお婆さん(大塚さん)によると、久町の南がオンザキで、北がキタウラということだった。 *オンザキの風景写真添付 *キタウラの風景写真添付 正午過ぎ昼食をヤマザキショップ裏でとって、午後1:00過ぎから気を取り直して、再び弘江東の調査を始めた。竹下琢磨さん宅を尋ねた。そこでは松や柳などのしこ名の中では松が一番排水がよい場所であること、道免というしこ名は排水が悪い場所であるため道(税)を免除されることから付いたしこ名であることを教えてもらった。竹下さんはまだ若かったため、詳しいことは分からないということだったが、鳥谷さんという古老を教えてもらい、鳥谷さんを訪ねてみた。 鳥谷さんはしこ名の外に広江は昔は東と西に分かれていたのだが、住宅が増えて来たために広江西の北の方を広江北、広江の南の方を広江南というふうに新しく東西南北の四つに分かれた。また、広江西の集落にはゴバンショと呼ばれる所があり、その一帯の五本柳とは区別されている。その由来はかつて番所があったことからその名が付いているということだった。 *コウシンボイの風景写真添付 コウシンボイは終戦後に掘られた。 *シホンヤナギ(四本柳)の風景写真添付 *ニホンマツ(二本松)の風景写真添付 *オンザキ(鬼崎)橋の風景写真添付 |