【佐賀郡川副町咾分地区】

中世の村と人々レポート

                            班員名

SU-31 本山雅章

吉原賢一

力武直也

簑田一郎

 僕らは11時頃に川副町に着くとまず最初に区長さんの家を訪問した。そして区長さんに「しこ名」について質問してみたがあまりよく知らないとのことだった。しかし、区長さんは「こん人ない、たぶん知っとんしゃろ」と言って庄司久義さんという人を紹介してくれた。僕らは道に迷いつつも、人に聞きながらやっとのことで庄司さんの家に着いた。が、留守であった。

 それでその近所の人を何軒か訪問してみたが、よく分かる人がいなかった。そこで、もうその地区を後回しにして他の地区へ行ってみたが、そこでもあまりよい結果は出なかった。

もう時計は3時を過ぎている。僕らに焦りの色が見え始めた。とりあえず、僕らはまた庄司さんの家に行ってみることにした。すると、庄司さんは家にいらっしゃった。

突然の僕らの訪問に初めは少し驚いた様子であったが、僕らの質問に快く受け答えをして下さった。昔のことなのであまり覚えてとらんかもしれんと言っていらっしゃったけれど、一生懸命思い出してくださり本当に申し訳ないと思った。そして本当にありがたかった。「ありがとうございました。」と僕らは言って、庄司さんのお宅を後にした。その後もがんばってみたけれど調査はなかなかはかどらないまま時間は刻々と過ぎていった。お宅を訪問するのもそろそろ迷惑な時間帯にさしかかってきた。とても悔しい。僕らはわざわざ佐賀まで何をしに来たのか。全て終わらせられなかったのが大変心残りであった。

僕らが質問したこと、及び答えてくれたこと。

Q1 水田の水はどこから取り入れているのですか?

a)      水は北山ダムからのさんめん水路と筑後川からの「あお」ば使いよいよ。

Q2 それは単独の水利ですか?

a)      北山ダムからの水は上流の町と共有して使いよいよ。

Q3 それで過去に水争いはあったのですか?

 a) 水争いはなかったよ。上の人に下の人が相談しとった。

Q4 あおは何月から何月まで、どこから、誰が取り入れていたのですか。

  a) だいたい4月から9月ぐらい。日によって違う。諸富 水利組合。

Q5 去年は大干魃でしたが、特別な水対策はありましたか。

  a) 特になかったばってん、1日の水の供給量が決まっとった。

Q6 この大干魃が30年前に怒っていたならばどうなっていたと想像されますか。

 a) よう分からんね。大正14,15年くらいに灌漑水道ができたとばってん、あんまい役にたたんやったとじゃなかろうか。

 

今回お話して下さった方

 庄司久義さん 大正15年生まれ(68)

 江頭太八さん 大正13年生まれ(70)

  外、いろいろとお世話になりました。

 



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