【佐賀市金立町若宮原地区】

歴史と異文化理解A現地調査レポート

1EC95020 今井亜樹子

1EC95025 梅田由美子

1EC95034■  岡 恵美

☆しこ名(ほのぎ、あだな)

 詳細は地図参照(田んぼ―赤、川―青、橋―ピンク、いぜき―紫)(地図省略:入力者)

 

 来迎寺と若宮原で呼び方が違う場合がある。(ex.来迎寺では東の川と呼ぶ川も、若宮原では西の川と呼ぶ。)また、しこ名の由来は色々あり、

1、部落の名をとったもの

 「十七川」「十七橋」

 「赤出川」「赤出橋」

2、住人の名をとったもの

 「だんぺいやしきいぜき・たんなか」、「くまろくさんのたんなか」、「かだゆうさんのたんなか」など。

3、地形からとったもの

 「ひょうたんくびいぜき」―丁度ひょうたんのくびのようになっていることからついた。

4、その他

 「ひらき」―あとでひらけた所だから「開」という字があてられるのではないか。

 「五の角」―川の角ばった地形に由来するのではないのではないか。

 「深田のたんなか」etc.

 

また、昔小作が多かったために、2のように地主の名がついているしこ名も多いと考えられる。

 

☆水の配分

 詳細は地図参照

 

 水利権は昔から絶対のものであった。又土地の高低差があるため、川の付近でも水をあげることができないので、乾いた田は堀り井戸・深井戸をほったり、もぐら穴といって田の境に穴を掘り、隣の田の水を自分の所へ引いたりした。これに対し、水をとられないようにあぜぬりや田んぼの端にしろかきやよせがきを作って対抗した。このような争いの結果水を取られてしまった時には、周りの人から“あぜばようぬらんけん”、“よせがきばせんけん”等といわれた。また、このようなことを夜することを夜水とよんだ。表だった争いをすると尾をひき、人間関係が気まずくなるため、目立った争いはなく、現在行われる補助整備においても争いをしないことが鉄則となっている。昔激しい争いがあったからかもしれない。話をしてくれたおじさんの“同情しても水はあげない”という言葉が印象的だった。

 

補足 1若宮原ではいしばしのいぜきが一番大きい。

   2西の川いぜきは西の川の田だけ、ふきんではあげられない。

 

☆1994年の干ばつののりきり方

 丁度、付近一帯に補助整備が行われていたため、川久保県道を境に北側が1作休んでいた。そのため南側で水が使えたため、水不足ということはなかった。又、ほり、溜池をつくり、管理者をおいて全部にいれるようにした。しかし、94年の干ばつはかなりひどかったらしく、だいもんじでは水がかれてどうしようもなくなったため、150mの深井戸を3つ800万かけてつくったりしたそうだ。又、深田の田ん中は、湿田でいつもは水がたまっているがこの時は例外だったという。なんと、94年は豊作だったそうでとてもびっくりした。

※図省略(入力者)

 

☆1942年の干ばつののりきり方

 1942年もひどかったらしい。7月20日ごろまでふりあとは全くだったとか。(94年は5月半ばくらいからふらなかった。)除草剤がないので手押し車で除草した。又、みんなの努力で水のある南部からバキュームカーで運んだりもした。(94年も)又、たて×よこが1m×40〜50cmの瓦を何枚か組み合わせて井戸がわらをつくったりも。これはいぜきのぎりぎりそばにつくり、砂地であるためにいぜきからしみ出た水を使うもので、これは暗黙の了解であった。井戸がわらは、上の方はせまいが下の方ではひろがっており、土地の有効利用がはかられている。2m以上はあるそうだが、砂地であるため数mで水がしみ出て、わいて出てきたという。しかし、こんな時でもいぜきの臨時共同利用はなかったと言われ、私たちが思っている以上に水利権に対する考えというのは厳しいということがわかった。

 

☆お話ししてくれた人のお名前、お年

 お名前 牟田傅(むた つたえ)さん

 お年 58歳

 とてもやさしい人で、丁寧かつ詳しく教えて頂いた。昔の方がのんびりで周囲の人々との交流もあったし、子供達の自然の遊び場もあって良かったといっていた時の顔がとても印象的だった。

 

☆入会山

 村の共有林というものはなかった。村有林ではなく部落林はあり、「やきやま」と呼ばれていた。現在までに3ヶ所のやきやまを処分したが、金立大門にはまだある。お話しを伺った牟田さんの祖父の代くらいまでは、やきやまは各個人に分けられており、土地の質によって所有する面積の大小が決められていた。

 

☆村の境界

 田んぼではなく川によって境界を決定していた。過去に水争いなどもあったことから、川の境界は絶対的であったと思われる。

 

☆昔の田の実り方

 乾田(裏作可能な田)は一反当たり6俵、湿田は2〜4俵収穫できる。湿田は肥沃な土壌なので水につかりさえしなければよく実る。深田の田ん中や、十七橋と大野原に間の土地などは湿田である。肥料は、大豆かす、いわし、油かすなどを利用し、また戦前には、北の方に広大な射撃場(現在では高速道路あたり?)があり、そこの草を刈り取って肥料とした。他には、左図のように棟をつくって麦をまき、くぼみに大豆をまいた。そして収穫時に麦を刈り取ったあと、土をくぼみにすきこんで平らな土地にし、大豆を肥料にした。

※図省略(入力者)

 

☆主に農業における今後の展望

 「今後の見通しは?」と尋ねると、「ない。全然ない。」との答えだった。これからも農業を続け、働いている息子さんに兼業農家として家を継いでもらうつもりだという。そのため、補助整備や機械化などに力を注いできたが、コストがかかるため1俵当たり約1万6千円の収入も、手元には3分の1程しか残らない。また、隣同士のつきあいもなくなり人間関係が希薄になっているため、寂しい気がするという話だった。昔は「手間返し」といってお互い手伝いあったりしたものだったが、現在では全体の管理人がいて管理を行っているのみであるという。区画整備によりいっそうシステムの充実がすすみ、昔は自分の家で行っていたもみすり等をカントリーという設備が引き受け、ライスセンターという所が貯蔵する仕組みになっているともきいた。便利になった反面、時間的にも精神的にも余裕がなくなり昔の方がよいとのことだった。また昔の方がガスや水道に関する支出など小さかったそうだ。

 昔に比べ子の遊び場がなくなっているので、近々赤出川近くに子供の遊び場を設ける予定だという。また、護岸など自然破壊が進んでいることからいぜきに魚道をつくり魚のすめる環境を守ってゆきたいとの話だった。このあたりの綺麗な川にはハヤが生息しているそうだ。また、馬出川は昔、馬を洗う風景が見られたことから名付けられたが、もうそんな光景は見られなくなったこと、敬老会などの集まりでは昔の面影がなく申し訳ないといった話がよくでるということも伺った。

 

☆感想

 大変快く迎えて頂き、楽しい時間をすごすことができた。通常の教室での授業では感じとることのできない農村の歩み、苦労などに触れることができ、大変有意義であったと思う。20世紀、日本は高度経済成長を遂げ、それまで大部分を占めていた農家は急速に姿を消してゆき、私達には遠い存在となってしまっていた。今回はその生の姿に触れ、農家の果たす役割の重要性を再認識するよい機会であったと感じている。



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