【佐賀市金立町島崎、黒土原、野田地区】 現地調査レポート 1EC97248■ 富永健史 1EC97243■ 岡辺好徳 12月21日、僕たちは車で佐賀に向かった。ちょうど、お昼頃に現地に着いた僕たちは、早速、ふたてに分かれて調査を開始した。4人で行った僕らは、車の二人と分かれて、徒歩で調査を開始した。 事前に予想していた以上に、僕らの謁査は難航した。1時に調査を開始して、4時の時点で、何も収穫はなかった。島崎の調査は、土地に詳しい農家のお宅をお伺いしたが、あいにく、詳しい人が不在であったため、あきらめざるを得なかった。そして、向かった黒土原では、ある農家をお尋ねしたところ「ここは、昔から射的場があったから、土地の呼び名なんかないよ。」と言われた。また、話によるとその農家の方はかなり古くかち、そこに住んでいらっしゃるようであった。 無口になったまま時計の針はとうとう6時を回った。12月のタ方の6時というと、もう辺りは暗くなっている。昼間は天気も良く、暖かかったが、夜が近づくにつれて、寒さも増してきた。その頃、僕らは最後の期待を込めて、野田に足を運んでいた。 二人で話し合った結果、もう1軒あたって駄目だったら、あきらめるということに決まった。そして、最後の期待を込めて、あるお宅をお伺いした。「ごめんくださーい。」、と言うと、「は一い、何かご用でしょうか?」という返事が返ってきた。撲らは、一生懸命にしこ名について説明したが、分からないらしく、返答に困っている様子だった。そこで、この辺りで、他に土地に詳しい方はいないかと尋ねてみると、野田の生産組合長の東島勝(ひがしじままさる)さんのお宅を紹介して頂いた。 このとき、すでに時計の針は7時をまわっていた。まさに、これがラストチャンスだと思った。 早速、お伺いしてみると、あいにくその方は不在で、もうこれが最後だと思った僕ちは、待たせて頂くことにした。時計の錯が7時30分をまわった頃、やっと帰ってこられたので、尋ねてみることにした。そのご老人は実に快く、僕らの質問にいろいろと答えてくれただけでなく、当時の島崎、野田、黒土原の様子について実にいろいろと話してくれた。その老人の話によると、その部落の、南のほうの名前しか、しこ名になっていないということだった。そして、昔はいろいろと呼び名があったが、圃場整備の際に、消えていったらしい。また、土題の売買などによって、「その躍ん中の名前は、「○○んちの田ん中」などと言うようになったとのことだ。 また、一本杉という小字について、おもしろい話も聞かせてくれた。昔、そこには墓地があって、そこを取り壊して、盛り土をして、そこに杉の木を一本立て、そこからの見晴らしを良くして、指揮官が調練をする兵隊たちを監視していたそうだ。 黒土原には、昔、射的場があったというから、そこに来る兵隊達の調練を監視していたのだろう。そして、射的場の近くの土地は、それにちなんで100シャダン、200シャダン、・・…、600シャダンなどと呼んでいたということだった。 圃場整講の際のおもしろい話も聞かせてくれた。それは、このような話だった.地区と地区のちょうど境を流れている川があったそうだ。その川は二つの地区のどちちにも水を供給していたそうだ。もともと、その川には名前がなく、名前をつける際に非常に困ったそうだ。そして、最終的にどうやってつけたかというと、多く水を供給している方の地区の名前をとって、付けたそうだ。そんなに適当につけていいものかと思ったのは、僕だけしゃないはずだと思った。 しこ名も、今や、ほとんど使っている人がいないとも言っていた。これは、最初にお伺いした、島崎の農家の方も言っていたことだった、だから、今、本当になくなってしまう前に、調査しておかなければならないのだろうと思った。と、同時に、自分達のやっていることは、それなりの意味があったことに、恥ずかしながら、そのとき、初めて実感した。それだからこそ、調査した名前は正確に地図に記入する必要があるんだなと改めて思った。 東島勝さんもおっしゃっていたことだが、ここ最近、その昔のしこ名に詳しい方が亡くなってきているというから、調査は急いだほうがいいと思われる。今、しこ名を知っている者といえば、65〜80歳、もしくは、それ以上の高齢者の方、僕らがお話をお聞きした生産組合長の方くらいしかいないということだそうだ。 こんなふうにして、やっと、僕たちはしこ名の調査、採集に成功したのだった、もっと、お話を闘きたかったが、時計の針も、すでに8時30分を回っており、あまり遅くまでおじゃましても悪いと思ったので、僕らは厚くお礼を申し上げて、その農家のお宅を後にした。 やっとのことで、調査を綬えた僕らは、疲れてはいたけれども、なにかすごく気持ちがよかった。一つの大仕事をやり終えたという充実感に浸っていた。こうして、僕らの集めた資料が、記録として残っていくと思うと、妙に嬉しかった。と、同時に、自信を持って記録に残せるなと思った。長時間に及ぶ徒歩のせいで、足は痛かったが、本当にいい思い出になった。佐賀において、撲らがお世話になった方々はみんな優しかった。人と人とのふれあいに、福岡では忘れていた暖かさを感じた。この講義を受講して、いろいろな意味で、本当に良かったと思った。 |