【佐賀市金立町金立3区、4区地区】 歴史と異文化理解A現地調査レポート 1EC95067■ 小森麻由 1EC95107■ 寺田美保子 ○水利のあり方 水は主に、金立川、黒川、立曲堤、大野原堤、観音寺堤から引水されている。配分に際しての、特別な水利慣行ではなく、水利権というものがあった。その内容は、例えば1つ1つの川に対し、川の東側の地域は使えても西側は使えないとか、普通川から直接水をとれる方が堤より権利が上であるということがあった。同じ水利権をもつ人の中でも、川や堤に近い人は多く水を取れるので、その分堤の掃除(つつみまくり、ほいほし)をしたりした。また、きまりというわけではないが、酒や菓子などをもっていったりする慣習があった。地図上では、川に近くても高低差のために実質、水利権がない地域(茶色の部分)がある。 (地図は佐賀県立図書館所蔵) 地図 だいだい―金立川の水利権がある。 黄―大野原堤の水利権がなく、金立川から直接水を引いていた。 干ばつの際には、特に川や堤に近い地域に水をとられてしまうために、水争いがよくおこった。例としては、久保泉の方では、殺人事件があったらしい。このことを、水騒動または水喧嘩と人々は呼んでいる。この事件の背景には、水に近い地域の人々が板のようなもので水路をふさいでしまうために、他の地域には水がこなくなり、今度はその地域の人がその板をとりにいくというイタチごっこが行われていて、たまたま、鉢合せになったということがいわれている。 ○かんばつに際して 昔、干ばつが起こった際は、水に遠い地域は、ほとんど枯れてしまった。その当時は、他の堤や川に続く水路がなかったために、もらうことができなかったのが大きな要因であった。去年の大干ばつの際には、ある程度、基盤整備が行われていたために、水の量を計算して、各田んぼに水をわりふることで乗り切ったらしい。また、現在では、農業共済などでその水田が被害をうけた場合は、共済金がでるようにもなっている。 ○乾田と湿田について 高地では裏作ができやすく、低地では水はけが悪いためにできない。 地図 緑―湿田 ○肥料について 畑においては、主に人ぷん、牛ふんであった。田んぼにおいては、みかんの皮や木の葉やわらやもみがらを発酵させたいわゆる有機質や、窒素、リン酸、尿素などを自分たちで調合させたものや鶏ふんを使用していた。 ○まとめ 昔と今では何が一番変わったかと聞いた時、混住社会になったといわれた。これは、農家とサラリーマンとが入り混じって住んでいるような社会である。農家の中にも兼業農家が増え、農業人口が減少したと語ってくれた。これからの日本の農業について聞くと、必ず食糧難がやってくるとの答えがかえってきた。人口がどんどん増え、アメリカ、オーストラリアは干ばつがやってきて、中国も輸出国から輸入国にかわり、今は、日本は輸入に頼ってばかりいるけれども、安く輸入できるのが続くとは限らないので、日本の農業を輸入に頼らずに、全ての作物を自給自足できるように立て直していかなければならない。 ※地図上の青く塗られた部分は、H8年度に、基盤整備が行われることになっている所で、その下の斜線部分は、今整備中であって、現地の人の好意で見せていただいた。また、赤字で書いてある“どんめんくされ”とは、現地の言葉で特別な意味があって、男の人のシンボルのことをさしているということでした。 ※主によく知っていらっしゃったのは、大正12年生まれの方でした。 |