【佐賀市金立町西千布、野田地区】

現地調査レポート

1AG960972 佐藤洋行

1AG96128■  田中淳

聞き取りを行った人々

・瑞光寺の和尚さん(名前聞き忘れ)

・徳島宗明さんの息子さん

・徳島廣海さん

・野田のおばあさん(名前聞き忘れ)

 

<しこ名一覧>

西千布

田畑

小字大北二本黒木、布上一本松のうちに、ゴタバタケ(五反畑)更にゴタバタケのうちにイニイトンガリ、フタセバタケ、ヨシェバタケ

小字大北一本杉のうちに、ハルノヤマ(春の山)と上布上のうちにカイノノウエ(上布上)

小字上布上、下布上、大北堤のうちに、シモノジュージ(下の小路)=キノシタシュージ(木下小路)

小字大北堤下のうちに、オオキタ(大北)と大北のうちにオンミョージ(御名寺)

小字雲州観音小路のうちに、オタツカンノン(オタツ観音)、カンノンジュージ(観音小路)、ジョーゴジ(城ゴ寺)

小字布上二本松のうちに、ナラザキ(ナラ崎)、シタンゾウ(四反ゾウ)、マツザキ(松崎)、リョーポン(良ポン)

オオキタ、オンミョージ、カンノンシュージ、ジョーゴジ、ナラザキを合わせてゴソンマエ(御所前)

小字布上一本松のうちに、ヒコメ

小字雲州一本松のうちに、サンミャワラ(三枚ワラ)

小字布上一本松、布上南小路のうちに、ミドメ

オオキタとオンミョージの境にオンミョージ(御名寺)

ミドメの北西、黒川にかかるフクシマバシ(福島橋)

県道鳥栖、川久保、佐賀線=シャテキミチ(射的道)

野田

田畑

小字名に番地をつけて呼ぶのでしこ名なし。

 

<用水についての一覧>

 

使用している用水の名

用水源

共有している他の村

水ゲンカの有無

西千布

黒川

サンメンスイロ(三面水路)

黒川

コシェ村

東千布

野田

水路

深井戸

地下水

なし

なし

配水の慣行・約束事については、「行動記録」の方に書いてあります。

 

<行動記録>

 12月21日土曜、私達佐藤洋行、田中淳の両名は自家用車によって、佐賀県佐賀市金立町を訪れた。現地到着は11時頃だったので、昼食をとり、1時に調査を開始した。私達の担当が西千布と野田だったので、まずは、西千布の調査から始めることにした。

 私達の担当地域は、他のところのように生産組合長等の名前が分かっていなかったので、とりあえず、近くにあった瑞光寺というお寺の和尚さんを訪ねた。

 和尚さんは調査の旨を伝えると、初めに千布の地名の由来について教えてくれた。その話しによると、秦の始皇帝に不老長寿の薬の入手を依頼された徐福が、この辺りを通る際、湿地で足場が悪かった為、千枚の布をしいたところから、千布という地名になったそうだ。更に徐福はこの地で地元の娘と恋におちたということだった。これは後々わかったことだが、この話は千布のほとんどの人が知っていて、今でも50年に一回、このことをまつったお祭があるそうだ。

 さて、しこ名についてであるが、和尚さんはあまり知らないらしく、用水のことなどについても、もっとくわしい人に聞く方がいいだろうということで、前に生産組合長をしていた徳島宗明さん宅を教えてくれた。そこで、さっそく宗明さん宅を訪ねてみたが、息子さん(50才前後と思われる)だけが在宅していた。それでも何か知らないものかと、しこ名の話をすると、徳島廣海さん(70才位)がくわしいだろうということだった。

 廣海さんは在宅していた。さっそくしこ名について聞いてみると、サンハルノジュウジ(春の小路)、カイノノウエ(上布上)、シモノシュウジ(下の小路)、ハルノヤマ(春の山)、オオキタ(大北)等々計21ものしこ名を教えてくれた。しかし、しこ名は機械的につけられる(例えば、畑の広さからフタセバタケ、ヨシェバタケとつけられたり、畑の形からイニイトンガリとつけられたりする)為、そういうものは記憶に薄いということだった。また、しこ名はその持ち主が勝手につける為、境界が重複するものもある(例えばマツザキとリョーポンの境界で、マツザキの端の田ん中の持ち主は、自分の田ん中をリョーポンといっていたらしい)ので、地図におとすのはなかなか難しいのだそうだ。

 それでも廣海さんは私達の為に尽力して下さって、おかげで西千布の地図のほとんどが埋まった。そこで次に用水のことについて聞いてみた。

 千布の西には黒川という川が北から南へ流れている。イシイ寺(ジ)という寺がそこにトウシュコウという水門をつくり、灌漑水路を引いたということだ。これは、千布の南東にあるコシェ(巨勢)村まで続いていたが、水はけが悪かった為、両村で協力してドロをすくう等の作業をしたらしい。蛇足になるが、これらの作業は男女共にするので、両村の男女の出会いの場でもあったそうだ。先に私達が訪れた瑞光寺の脇には、黒川から引いてきた三面水路という水路があり、これもコシェ村まで続いていたそうだ。千布にはこの他にも堤が1つあったが、これらは基本的には日割り(曜日別)で使っていたらしい。しかし、水路のユビ(イビとも聞こえる)と呼ばれる水門は西千布が管理していたという。

 干ばつのときには水ゲンカと呼ばれる水を巡っての争いもあったらしい。下流の部落(集落)の人々が夜に堤のセキをきりに来るのだ。もちろん上流の部落の人々はそれを阻止しようとする。セキの近くに見張り小屋を建て、セキを切ろうとする人がきたら、クワやスキを持ってケンカをするのだ。水ゲンカは大抵、宴会や接待など酒の席で和解し、いつもとは違う日割りの日程を話し合いによってその都度決めたということだ。

 今では地下水をくみ上げるポンプが数ヶ所あり、干ばつになると、ポンプの係りの人が田を見回り、ポンプ使用の許可をだすのだそうだ。ポンプができてからは、水ゲンカはなくなったが、1994年の大干ばつのときは日割りで水を使ったということだった。

 ここで3時半になったので、野田の調査のことも考え、廣海さん宅をおいとましました。このときは、千布での調査がトントン拍子に進んだので、野田での調査もうまくいくだろうと思っていた。付近の人に、野田にはどうやって行けば良いのか尋ねると、「神埼町の野田ですか?」と聞かれた。私達が金立町の野田だというと「知らない。」と言われた。その他の人にも聞いたが、知っている人はなく、野田を知っていても神埼町の野田だという。現代の地図では、野田は確かに神埼町にのっている。

 とりあえずは古い地図を頼りに野田と思われるところに行ったのだが、そこでも野田を知る人に会えなかった。それで、おかしいとは思いつつ神埼町の野田まで車で行き、農作業をしていたおばあさんから、以前生産組合長だった宮内さんを紹介してもらった。

 宮内さんは在宅していた。驚いたことに宮内さんは昔測量をしていて、佐賀の地図を作ったこともあるということだった。そこで私達は、持参した昔の地図を取り出し、金立町の野田を指して、こことは違うのかどうか尋ねてみた。答えは予想通り別の場所ということだった。しかし、そのとき時計の針はすでに4時半を過ぎていたので、金立町に戻ると、夕食どきになってしまうと思い、せっかくなので、神埼町の野田についても聞いてみることにした。(金立町の野田には翌日行ったので、後で述べる。)

 神埼町野田の田ん中は昔から番号で呼ばれていたらしい。水ゲンカは大正にはなくなっていた。それは、昔1のオイ〜13のオイまで分かれていたのが、部落としての立場を強くするために1つにまとまったからだということだ。この野田の水路の源であるナカチエ川(現在でいう姉川)の上流にはオサキとイデノという部落があり、2つを合わせてデェウエ(土井上)といったが、そこと野田は日割りでこのナカチエ川を使った。この日割りは昨年にも行われたらしい。

 今回はここの調査がメインではないので大雑把に書いたが、だいたいこのような話を聞く内にもう6時近くなっていたので、宮内さん宅をおいとまして、下和泉の方を調べ終わっていた友達を車に乗せ、帰宅した。

―翌日。

 昨日の失敗を取り戻すべく、佐賀についたのは1時頃だった。また昔地図を頼りに金立町の野田があると思われるところに行き、昨日よりも範囲を広げて、主にお年寄に聞いてみた。近くの家にも尋ねてみた。すると40才前後のおばさんが、「野田っちゃ神埼町やろーもん。」というようなことを言っている横から、その家のおばあさん(70才位)が「金立にも野田あるよ。」と教えてくれた。それによると、私達が予測していたよりもはるか西に野田はあるらしかった。しかしそのおばあさんも野田のくわしい位置は分からないということなので、場所をもっと西に移して、また野田の位置を手当たり次第に尋ねていった。やっと農作業をしていたおじいさんからくわしい位置を聞き、行ってみた。

 これで調査が進むと思ったのもつかの間、野田は新しい家(というか若い人しか住んでいない家)が圧倒的に多かった。とにかく古そうな家を当たってみていたところ、玄関先に70才くらいのおばあさん(名前を聞き忘れてしまいました。)がいたので尋ねてみた。

 しこ名については、一生懸命思い出してくれたものの、ニホンクロキ、サンボンクロキの2つだけで、あとは随分昔から、ニホンクロキの□□番地というような呼び方をしていたという。

 水ゲンカは昔からほとんどなかったらしい。それは、普段から特に日割りで使わなくていい位水の豊富な水路、数件の家が自分でもつ深井戸があったからであり、早くからそれを使う為の話し合いがもたれたからでもある。更にそれでも水が足りないときは係りを決めて山まで水くみにも行ったそうだ。今ではそれに加えてポンプができたので、1994年の大干ばつもそれによって耐えたということだ。

 ここでもう4時を過ぎていたが、もっとくわしい話を知りたいと思い、そのおばあさんに心当たりを聞いてみたところ、今、野田には自分の他にもう1人おばあさんがいるだけで、その人はあまりくわしくないということだった。更に悪いことには、そういうことにくわしかったおじいさんが前(去年を指すのか今年を指すのか不明)の夏に亡くなったということだった。これでは諦めるしかないと、帰途についた。

―今回は野田の場所がなかなか分からずに失敗してしまったが、2つの野田を調べることにより、何故かこの2つに似通っている点があることに気付いた。水ゲンカが早くになくなったこと、早くから田ん中を番地で呼んでいたとこの2点である。野田の地名の由来は誰からも聞けなかったが、同じ地名に似通った点があるのはなにか理由があるのか、今度機会があったらその辺りも調べてみたい。(文責:佐藤洋行)



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