【佐賀市金立町上九郎、下九郎地区】

歩き、み、聞く歴史学現地調査レポート

1TE95458 中野康弘

1TE95471 野田利樹

・上九郎

聞き取りの方法

 上九郎の大坪和義さん(昭和20年生)を訪問した。また、大坪さんは若くてしこ名をあまり知らないということなので、木塚昌宏さん(昭和6年生)を紹介していただいた。

 

内容

 そこで聞いた田、堀のしこ名は地図に示してある通りである (地図省略:入力者) 。その中で、「切腹墓」というのは、鍋島勝茂が死んだときにその家臣が追い腹を切ったことが由来している。「土器(カワラケ)土井」はここを掘ったら、たくさんの土器が出てくることからこの名がついた。また、この土器土井の西側には、ていぼうの跡があり、この付近に昔、人が住んでいた形跡があるということだった。「井戸跡」は昔、井戸がなかった時にこの位置に村の共同井戸を掘ったことからついた名である。今も小さいがあるということだ。

水利では、この区域では一番不利な状況にあったらしく、水は横落水系の残り水と十七水系からの夜水引き(夜のみ水を引く)と天水がたよりだった。しかも横落水道は水利権がなかったため水をとると米三俵を払っていた。35年前までは田植えの時期はこれらの水系からだけでは十分な水が得られず、雨が降って田に水が張るまで田植えはできなかった。しかし現在は35年前にできた北山ダムからの水道で解消されている。

堀の所有権は、堀の西側および南側の田の所有者がその権利をもつ、しかし堀と田の間に道があった場合その権利を失い、向かいの田の所有者がその堀の所有権を持つ。また堀に接していない田はその価値が落ちる。また堀には「春の堀干し」と「秋の堀干し」があり、前者は堀の泥を上げることが目的であり、その時とれる魚はとった者のものとなる。

一方、後者は魚をとることが目的で、とれた魚はその堀の所有者のものとなる。上九郎の良田はワリカブモチベットウ、ヒョウゴロなどで悪田は園田(ソンダ)である。水利が悪い理由はまた、徳永に鍋島家家老の田があり、そのためにそちらに水事情が優遇されたという歴史的背景もある。

 

・下九郎

聞き取りの方法

 下九郎の小部龍明さん(昭和20年生)を訪問した。また小部さんは、しこ名をあまり知らないということなので、小部三郎さん(大正9年生)、福井又次さん(大正8年生)、田中義美さん(昭和7年生)を紹介していただいた。

 

内容

 そこで聞いた田、堀のしこ名は地図に示してある通りである。その中で「待機(チャーキ)橋」は、元々作られた際、その形がへ型で馬につけるくら(「チャーキ」と呼ばれる)に似ていることからこの土地の人に「チャーキ橋」と呼ばれるようになった。待機というのは後に役人がつけた当て字である。「殿田(ドンダ)」は昔池に中島があり(現在はつながっている)、そこで殿様の米が作られていたためにこの名が付いた。水利では主に上九郎、徳永方面からの水が主である。しかし、水が不足するときは、巨勢川から水を引き、それでもだめな場合は、殿田から流れる焼原川(主に排水用)からポンプアップされる。また、殿田の井樋の所有権をめぐってもめたことがあるということだった。この地区は全般的に土壌が粘土質であり、良田が多い。中でも、コクサノ、常橋、六角五角、土井辺が良田である。悪田は、上九郎ではないが、徳永の沖田で、昔よく堤防が切れて川の砂が流れ込んだため、土壌が砂まじりで(地元では「砂子(アヅ)がかかる」という)雨が降ればすぐに冠水し、しかもなかなか流れ出さないため、稲がだめになる。そのため昔から「沖田は下九郎より一俵落ち」といわれている。



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