【佐賀市金立町東古賀、西千布地区】

歴史と異文化理解Aレポート

1EC95180■  山崎修

1EC95181 山崎敬介

訪ねた家

東古賀:内田法華さん(65)

西千布:徳島宗明さん(72)

 

<東古賀>

 しこ名はあまりないということで、一つだけ東古賀北部の方に「ぎょうていし」というしこ名が残っているだけであった。ほりや、井戸のしこ名などはない。

 水利としては、金立川にポンプを2つ設置しており、春の彼岸から秋の彼岸、つまり5月〜10月の田植えの時期だけ水を取り入れている。しかし、水量が少ないため、筑後ぜきから水を引く予定もある。

 1994年の水不足の時は、日割りで水を田に入れる日を決めていて、協力しあっていた。しかし、下流の方になると、水の入ってくる量もしだいに減ってくるので、家庭の排水を利用していた。また、川のポンプの所には、水が盗んで行かれないように夜通し交代で見張りをつけていた。また、水不足の時は他の作物は作ってはいけなかったが、最近は減反政策によって、田んぼの2〜3割が畑作になり、麦・豆を作るようになった。また、今年も水不足になりそうだとのこと。

 月に一度は近くの神社にお参りに行っている。そして、近年東古賀に区画整備が入って来るため、地名が変わり、しこ名もなくなっていくらしい。

 

<西千布>

 田んぼのしこ名は、「てんじんのき」、「ごたばたけ」、「上布の上」、「春の山」、「春の小路」、「木の下」、「大北小路」とだいたいの地区のものは教えてもらったが、小さな田んぼ一つのしこ名とかもあったそうだが、思い出すことができず、教えてもらえなかった。また、才淵川、黒川も現在は地図にのる名前だが、もともとはしこ名だった。

 水利は、村の北部は才淵川から、南部は30年前に出来た北山ダムから水を引いている。せきが、13個あるが特別に名前はついておらず、1号〜13号というふうに呼んでいる。川からは、東古賀と同じく、ポンプを10台ぐらい使って汲み上げていた。水の配分に特別なきまりはないが、南部ではポンプごとに係りがいる。昔の干ばつの時には水争いもあったらしく、人殺しもあったらしい。

 1994年の干ばつの時には、ダムから水をとり、また大きな井戸を三つも掘った。そして、消防用の溜池からも水をとったということ。もらい水はせず、また他の作物も作らなかったらしい。近年、筑後川からの試験通水もある。

 今年から減反政策は23%になった。

 入会山は昔あったが、今度の東古賀のように区画整備が行われたためなくなった。

 

<当日の行動>

 1月20日。土曜日というのに、早起きして九大に行った。佐賀市と佐賀市の境に僕たちは降ろされて途方にくれた。周りには手掛かりになるものは何もなく、とりあえず歩いて気の向くままに道を曲がった。すると内田五郎と書いてある表札があった。僕の担当は内田法華さんで、同じ内田なのでちょっと訪ねてみると、見事ストライクだった。午前11時前のことだった。早速、話をうかがったが答えてくれたのは、法華さんではなく、ほとんど法華さんの母親だった。とても話しやすい人で、快く質問に答えてくれた。福岡県出身の僕と長崎県出身のパートナーでその間にある佐賀弁も難なく理解できた。年は70才弱ぐらいの人だった。話しの好きそうな人で、質問の内容に全然そっていない世間話もしてくれた。これで東古賀は終わり、西千布に行こうとしていた。実は西千布の徳島孝治さんに断られていて、新たな人を探す予定だった。すると、内田さんが西千布に詳しい人を紹介してくれるといって誰かに電話していた。その人は、わざわざ僕たちのいる内田さんの家に来てくれた。70過ぎの方だった。この人もかなりの話好きな人で、世間話をまじえながら、質問に答えてくれた。初めに「田んぼのしこ名を教えてください。」と尋ねると、「い〜っぱいあるよ。」と答えてくれたが、なかなか思い出せないらしく、数ヶ所を教えてくれた。その他、必要なことを聞き、いざ帰ろうかと思うと、西千布の人が「なんでこんなことをしとるとー。」と聞くので、僕が「昔の田んぼのことを調べているんです。」と答えた。すると、「それはいいことを言った。最近の若いもんに田ん中のことを言っても、全然わかってくれん。40すぎの人に言ってもわかってくれんもんね。」と嬉しそうに言って、それから相撲の話や近所の人の話など40分くらい雑談をして、話が一段落ついたので帰ることにした。帰り際に西千布の人の名前を聞くと、「徳島宗明」と言った。なんと、僕らが断られた徳島孝治さんの父親だった。結局、僕らが手紙を出した、内田法華さんと徳島孝治さんの母親と父親に話を伺っていたのだった。



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