【佐賀市兵庫町立野、金立町傍示野、五丁地区】

現地調査レポート

1TE96840 門岡啓介

1TE96906 前山忠毅

兵庫町立野 古老:中原党光(75歳)

しこ名 田 馬飛(うまとび)、榎の角(えのきのすみ)、まってかく、焼原(やきばら)、杉原(すぎわら)、丁氏野(ちょうじの)、先無(さけなし)、源氏角(げんじすみ)

    ほり ぞうかやし、中濠

 

金立町傍示野 古老:三浦正男(76歳)、おばさん

しこ名 前田(まえだ)、中田(なかた)、先田(さきた)、二本黒木、三本黒木、五本黒木

 

金立町五丁 古老:木塚義仁

しこ名 一本黒木、二本黒木

 

<当日の行動(7月16日)>

 午前9時に六本松に集合した後、江上・藻形班とともに、車で現地に向かった。地図を見ながらの行動だったため、佐賀に着いてから約1時間さまよったあげく、傍示野付近に11時すぎ到着することができた。が、車酔いのため10分ほど休憩をとり、民家に向かった。途中、おまわりさんに「あんたたち、どこから来たのね、何しようとね、学生ね。」というふうに話しかけられた。おそらく、僕たちのような若者が田んぼのあぜ道を歩いているのがよほど、珍しいことだったのだろうと思われる。

 さらに歩いていくと、植木に消毒をまいているおじさんを見つけたので、しこ名について尋ねたところ、今の時期はみんな忙しいから、農作業がひと段落つく7月の下旬に来なさいなどと言った。といっても帰るわけにはいかなかったので、他をあたろうとしたが、ちょうど昼食時にさしかかったため、我々も昼食をとろうと思い、伊賀屋駅方面に向かったが、店が見当たらず、佐賀市だから何かあるだろうという甘い考えを持ったことを後悔した。しかたないので、また調査を再開したところ、ちょうど向こうからおばさんが歩いてきたので、しこ名について尋ねると、家の前にあるのが「前田」、田んぼにはさまれているのが「中田」、その先にあるのが「先田」だと教えてくれた。

 先に立野から調べていこうと思い、長いあぜ道を歩いて民家に向かったわけだが、この辺りは民家が極端に少ない上、人通りもほとんどと言っていいほどなかったため、ある家を、しらみつぶしに回っていった。それでも、半分くらいの家が誰もいない状況で、仮にいたとしても老人がおらず、しこ名について説明しても、知らないと言う人がほとんどだった。やっとのことで、出かける直前だった中原さんをつかまえて、お話をうかがい、先に記した立野近辺のしこ名の収集に成功した。水路利用や今後の日本の農業への展望なども、ついでにうかがおうとも考えたが、出かける直前だったということもあり、この場は控えた。他の人は全く知らなかったので、立野の調査はこれで終了ということにした。

次に傍示野にもどり、三浦さん宅を訪れた。そこで、二本黒木、三本黒木、五本黒木を教えてもらったが、二とか三とかの数字がつくところからして、小字のような気がしたので、前田とか先田とか、そういうふうな村の人や家の人だけで通じる呼び名はないのかと尋ねたが、御存知なかったので、とりあえずこれを記しておいた。また、この方からは、水利用や現在の問題点などを聞くことができた。(これは後で別記する。)その後、傍示野で他を全てあたってみたが、情報が得られなかったので、ここでの調査は打ち切り、五丁に向かった。

五丁付近もきわめて民家が少なかったため、一軒一軒あたっていった。何軒目かに、やっと在宅中の木塚さんに話をうかがうことができた。木塚さんから得られたしこ名も、一本黒木、二本黒木と、小字のようなものだったので、その事を前同様説明したが、こう呼ばれていると言い張るので、どうしようもなかった。また、木塚さんからは、満足のいくしこ名は得られなかったが、その他いろいろなトピックを聞くことができた。その中で木塚さんがおっしゃるには、五丁というのは地名ではなく、隣の部落四件を昔はそういうふうに呼んでいたという。その名残で五丁田橋という名前がついているらしい。また、木塚さん宅一帯は、昔は和泉野と呼ばれていたが、今では隣の四件の部落を含めた広い一帯を下九郎と呼んでいるというようなことを言っていた。また、巨勢川の堤防は、成富(なりとみ)兵庫という人が佐賀市を守るために築き、右岸は粘土で、左岸はあぞといって、わらのようなものを袋につんで、それをたくさん積み上げていたらしい。外側が侵食を受けて度々決壊するため、今ではカーペットを使用しているとのことだった。なお、水利用などについても伺ったが、これは後に別記する。また、木塚さんに聞いた部落をまわったが情報は得られず、そろそろ集合時間になったため、以上で調査を全て終了した。

 

<水利用について>

1.傍示野、三浦さんの話。

 この辺は、巨勢川とその周辺のほりから水を引いている。また、大水の時は関を全部しめて、大きい川(巨勢川)から水が来ないようにしているとのことだった。そして、一昨年、1994年の大渇水のときは、どうなされたのかと聞いたところ、この辺は自然水とダムからの水とを併用してポンプアップしているため、そんなに水に困ることはなかったという。それから、昔は北山ダムがなかったので大水のとき、水がなかなか引かず、床上浸水も度々起こっていたという。なお、線路があるため川が広くできず、すぐに川が氾濫する上、線路の部分が他のところよりも一段高くなっているため、水が長い間もち、排水が著しく悪かった時期があったという。現在では、圃場整備がしだいにいきわたってきて、以前ほどの被害はなくなったとのことだった。今後の問題点を尋ねたところ、この辺は全て水を下手から引き上げているので、それを上手から水が来るようにしてほしいとのことだった。

 

2.木塚さんの話。

 この地域は特に高台にあるため、ほとんどの水はポンプアップでまかなっている。特に水源からの距離が遠いため、水が自由に使えなかった。昔は神埼町の方から水をもらって、そのお返しに酒をやったりしていた。この地域よりもっと高台のところは、深い井戸を掘って水を確保している。現在、西手に平地ダムが建設されていて、五丁あたりに水路がつくられつつあるので、今後は、少しはよくなるだろうとのことだった。

 

<感想>

 教室でノートをとるという授業が多い中、こうして、実際に現地に足を運んで地元の人に直接話しかけて調査をしていくこの方式は、深く心に残るという点においても、現地から物事を考えるという点においても、すばらしかったと思う。



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