【佐賀市金立町土井側地区】
歴史と異文化理解調査レポート
1EC95194■ 吉丸直人
1EC95214■ 大津正和
調査日 1月20日(土) 土井側にて
情報提供者 石田静夫さん(87才)
1月20日。大津正和と吉丸直人は、遅刻することなくバスに乗り佐賀に向かった。現地につき、土井側へ向かったが場所がよく分らず、いきなり迷ってしまった。そこで、ある商店を見つけ、道をたずねると親切に地図を持ってきて教えてくれた。しかし、方言がよく理解できなくて困った。隣の県なのに、全然ちがうなあと実感した。そして、なんとか土井側にたどりついた。
しかし、この次は手紙を出した原口正浩さん宅がわからず、人に聞き回った。そして、原口さん宅が判明し、たずねてみると原口さん本人は仕事で家にはいなく、お年寄の方もいないということで、僕達は途方にくれた。そして、僕達は近隣の方をたずね回ったが、情報が得られずにいると、前の方にうなだれた二人組を見つけた。抗岡・熊本組だった。
この二人もどうやら調査がうまくいってないようだった。そして、四人で話し合った結果、農協に行き、聞いてみたがだめであった。そうこうしていると、抗岡・熊本組が一度行って留守だった石田静夫さん宅へ再び行ってみようということになった。僕らは、わらをもつかむ思いで行ってみた。着くと奥さんが出てきて、事情を話すと居間に通してくれた。
そこには、おじいさんがすわっていて、「しこ名」を知っているといい、僕らは「助かった」と思った。このじいさんは大昔の事をよく覚えていて、僕らは感心した。そして、しこ名を中心に水利や最近の土地区画についても細かく、かつ感想も交えながら教えてくれた。次頁にしこ名をまとめた。発音は独特で聞き取りにくかったが、聞いた通りに文字にした。また、しこ名の由来は、分かったものだけ書いた。
<しこ名>
・かんやしき(上屋敷)
・うらぼい(浦堀)
・あんのうら(尼浦)→尼寺がそばにあったから。
・しらかんで(白金土井)
・とっさうら(友貞浦)
・しもんじゃーもん(下大門)
・はちのかく(八角)
・すっちょんかく(七丁角)
・じゅうのかく(十角)
・なかどおり(中通)
・おきた(沖田)
・みつさき(水先)
・いけのはし(池橋)
・いおいけ(魚池)
・はったりゅうおう(八大龍王)→近くの地蔵の名前から。
※田ん中の一つ一つにしこ名がついているわけではなく、いくつかの田ん中を総称しているそうだ。
では、この辺りの水について分かったことは、少し昔になるが、浅川という川がこの土井側付近を流れていたそうだ。この浅川は、水利にだけでなく、土井側と久富の境界線にもなっていた。そして、水の分配についてだが、他の部落と協力して水を使用し、大きなもめごともなかったそうだが、干ばつの際はさすがに穏やかではなかったそうだ。だから、部落で堀を作っていたそうだ。3つの堀も教えてくれた。
(堀) べんじゃさんぼい(弁財天堀)
いおいけんぼい(魚池堀)
かんのんさんぼい(観音様堀)
こうやって、約二十年前まで水を得ていたわけだが、昭和四十年ごろ、市役所の補助もあってか、深井戸(地下150m)を多く掘った。このおかげで去年の水不足にも、なんとか負けなかったそうだ。
次に区画整理のことにも触れた。国の補助もあったが、ほとんどは各人負担という経済的負担を強いられたそうだ。しかし、整理後の事を聞くと便利になったとも不便になった訳でもなく、結局変化はあまりなかったそうだ。そして、区画整理の時には、反対者も多かった。原因としては、この辺りには遺跡が多かったからだそうだ。しかし、話し合いで決着したそうだ。
そして、最後に最近の農業問題をきくと、2年前に輸入米が急増し、米価も下がった。それに加えて、政府から減反を命ぜられ、かなり深刻になっているそうだ。今も昔も農業者は苦しいと、おじいさんになっても言わなくてはならないことが僕らは、胸が痛かった。こうして、調査は終了した。その後も、おじいさんと僕らは話し続け楽しかった。お茶やお菓子を出してもらいうれしかった。
色々苦労したけど、大学生ということが実感でき充実感があった。初めは、佐賀まで行くのが面倒だとか思っていたが、無事終わると、あのおじいさんと話したのが、いい思い出となった。