【佐賀市金立町土井側地区】 歴史と異文化理解調査レポート 1LA99040■ 埋田ゆかり 1LA99037■ 内山麻衣 金立町土井側 今回教授から紹介された原口正浩氏にお話を伺うことができなかったので、現地で様々な家を突然訪問するという形で、調査を行うことになりました。 そこで調べ歩き回った順に逐語記録していきたいと思います。 1 宮崎九一さん(65歳 男性) この付近は、もともとヒガシミョウ(東名)と言っていて、今では止式には上井側(ドイガワ)となっています。村の者達は、デーゴ−、デイゴーと訛って呼んでいます。この呼称は、老若男女間わず使われているようです。ヒガシミョウはしこ名です。 この辺りは昔は浸水することが多い地域で、ご本人宅も土台を高くして家を建てているようです。今はその対策として、近くに平地ダムが建設されています。ご本人は農業を営んでいましたが、病気のため人にl田畑を貸しています。そこでは主に米と麦を作られており、その他には量は少ないけれども、大豆も作られています。しかし、現在では減反政策により、その耕地面積も狭めなければならなくなったそうです。 私たちが訪れた時は、趣味で、鰻を捕るための投網を作っている最中でした. 2副島ミツヨさん(62歳女性) 大字薬師丸小字薬師森の南部は、お地蔵さん(薬師地蔵)が奉られているため、ヤクシサン(薬師さん)と呼ばれています。毎年七月十二日には、薬師さん祭りが行われておりまた、この近くには別にイボジゾウサンというお地蔵さんもあるようです。 巨勢川は大雨の時、上手がよく切れていたため、小字川原野、三本黒木の辺りの上手をしこ名でキレトと、また小字五反田をしこ名でタテボリ、地元の人たちはタテボイと呼ん でいます。 現在、大字薬師丸南部で発掘調査が行われ、貝殻などが発見されています。そこは昔船が沈んだと言い伝えられており、海ではなかったかと推測されていましたが、今同貝殻が発掘されたことにより、実証される結果となりよした。 3 諸岡将一さんの妻(60代女性) このお宅は一頭だけ馬を飼っていたので、好奇心から伺うことにしました。小字石土井にお地蔵さんが奉られているのは、昔、赤痢が流行したためです。昔は、毎月二十四日(特に七月)にお祭りをやっていたのですが、最近では、若い人たちがしなくなったため、花を供えるだけの簡単なものとなっています。 4 宮崎郁男さん妻(60代女性)とその長男 大字上九郎を、クロンミョウ(九郎名)と呼び、この呼称は現在でもそのまま使われています。小字沖田の土手の辺りをしこ名でタカヅクロウ(高津九郎)と呼び.大字下九郎小字三本黒木を二つに分けて、ゴチョウ、イズミノ(共に漢字不明)と呼んでいました。 5 原口フサエさん(69歳女性) ご本人が祖母から聞いた話では、小字壱本松南部をしこ名でアンノウラ(庵の裏)、小字壱本杉南部をドウシュウジ、小字一本杉北部をイッケンハシと呼んでいたそうです。 感想 女性は年配の方でも、しこ名を把握していませんでした。「自分は嫁いできたから……」と言って、あまり知らないのです。「70代半ばの男性が詳しいのではないのか?」と訪ね ていった先々で言われたのですが、なにせ突然の訪問であったため、留守であることが多かったです。しこ名に詳しいといっても、本人達の住んでいる場所付近や所有している田んぼ(田んなか)についてしか知らないのが現状でした。また、金立町全体で区画整理がなされているため、私達が持っていった地図を見せても、「田畑の形が今と違う。」と言って分かりづらいようでした。 村の様子は農村地帯という感じで、全く何もなく物寂しいところでした。訪れた時問は土曜の昼だというのに、人の姿を見かけることはなく、子どもの数は本当に少なかったように思えます。 (注)地形図における色分け ・道路……茶色 ・川、水路、谷……青 ・墓地……黄色 ・しこ名……黄緑 |