現地調査レポート/佐賀市嘉瀬町/荻野

 

歩き、み、ふれる歴史学

<調査地>

佐賀市嘉瀬町荻野

<調査者>

内田 秀人

梅崎 諭

河本 貴英

<訪ねた方>

堤 茂さん(昭和8年生まれ)

 

しこ名一覧:センニンヅカ(千人塚)、ワカレノマツ(別れの松)ハチマンボイ、ロクジャー、ミズデイ、フナバシ(船橋)、ミヤタ(宮田)、テラタ(寺田)、カミマチセンゲン

(上町センゲン)、シモマチセンゲン(下町センゲン)、カセツ(嘉瀬津)

田畑:〜こもりの〜番と呼んでいた 例:二本柳篭りの〜番田

他:カミマチセングン(上町センゲン)→八戸1丁目、2丁目あたり

シモマチセンゲン(下町センゲン)→下田町、末広1丁目、2丁目あたり

 

16日に、僕たちは佐賀県嘉瀬町に"歩き、み、ふれる歴史学"の調査に向かった。朝の9時に、周船寺にある梅崎君の家に集合し、そこから彼の家の車で嘉瀬町まで行った。途中の道のりは三瀬トンネルを通っていき、かなり車がゆれたため自分は車酔いになってしまったり、道がよく分からずに堤さんとの約束の時間である11時に間に合わなかったり、かなり大変な旅であった。

僕たちがお話をきかせていただいた堤さんは、梅崎君の遠い親戚にあたる方であったそうで、最初にお会いするまでどんな方であるのか自分は心配であった。しかし、自分たちが堤さんの家が分からなくなったときに、わざわざ森林公園まで迎えに来ていただいたり、家に上がらせていただいたときにお茶とお菓子をいただけたりするなど、とてもいい方であったので非常に安心した。

 

 

まず、堤さんから聞いたのは、むかし森林公園の場所にあったという死刑揚についてであった。

死刑場が実際にあったという話は、堤さん自身もおじいさんから聞いたということなのでおそらく江戸時代ぐらいの話であるということらしい。死刑を受ける人は、"ワカレノマツ(別れの松)"で家族と別れたあと、"センニンヅカ(千人塚)"があった揚所で処刑されていたそうだ。そしてその後処刑された人の遺体は、そのままセンニンヅカに埋められていたということだ。

 

このセンニンヅカの話を聞いているときに、堤さんは何か突然思い出したかのように話してもらった面白い話があった。

この話は昔の人の、農業の副収入の話にちかいものである。なんでも電気のない時代では(おそらく江戸時代ぐらいの話だとおもう)死刑場であるセンニンヅカの近辺、つまり地図でいうと現在の森林公園あたりを夜中に歩き回るのはたいそう不気味だったそうだ。そこでこのことを利用して、このような人たちと一緒に付き添い歩く商売があったらしい。昔は、センニンヅカは河原であったそうで、基本的にこの商売は、嘉瀬川の土手の部分をついてまわったらしい。

 

昔、この地を流れていた嘉瀬川は、現在とは形が異なっていたらしい。堤さんの話では、

「昔の嘉瀬川は、現在の森林公園をぐるっとかこむようにまがっていた。」

ということだ。なんでも70年代くらいに行われ始めた整備事業によって、嘉瀬川がいまのかたちに作り変えられ、そしてそのときにできた真中の土地に森林公園ができたそうだ。今でも、川があったといわれるあたりの田んぼを深く掘っていくと、たくさんの砂が出てくるらしい。ただ、この田んぼあたりの作物の出来具合を堤さんに聞いたところによると、現在ではよい土がたくさん砂地だった上に重ねられているので、作物の出来具合が悪いなどということはないらしい。

この、森林公園を作る工事の際に、センニンヅカのあった場所から、大量の人の骨がでてきたという話も聞けた。この話を自分たちに話しながら堤さんは感心そうに、

「わたしもセンニンヅカというものがあったという話を、私のおじいさんから聞きましたが、この骨がたくさん出てきたときに、あの話は本当のことであったんだなあ、としみじみ思いました。」

とおっしゃっていた。センニンヅカの跡地から出てきたという骨について聞くと、

「現在では供養のために、センニンヅカから北東にある、妙福寺というお寺に収められていますよ」

と話されていた。

 

この妙福寺という話が出た後に、堤さんは"テラダ(寺田)""ミヤタ(宮田)"というものについて自分たちに語ってくださった。

テラタ・ミヤタとは漢字を見れば分かると思うが、それぞれ寺・神社が所有する田んぼ・畑を意味する。これらの田畑は戦後GHQによって行われた農地改革によってすべて取り上げられてしまったということだ。その理由を尋ねると、農地改革ではお寺や神社のような組織や集団では土地を持つことが許されなかったためだということであった。戦前の、テラタ・ミヤタがあったころは、これらの田畑から得た収益が、お寺や神桂の運営資金としてつかわれていたそうだ。

 

また、昔の橋については、こんな面白い話もきかせていただいた。

江戸時代のころ、このあたりは嘉瀬川をはさんで東側を鍋島藩、西側を村田藩が治めていたらしい。鍋島藩は九州の人間なら誰しもが知っている大きな藩であり、村田藩は鍋島藩にくらべるとかなり貧しい藩であったそうだ。

堤さんによると、この藩の貧富の差が、昔ははっきりと川や用水路にかかっている""にでていたらしい。裕福な東の鍋島藩側の川や用水路には、りっぱな石の橋がかかっていたそうであるが、それに対して西側の村田藩側の川や用水路には、なんと泥で作られた橋しかなかったようである。話によれば、この泥の橋は非常にもろいもので、3年に一度はまた新しい橋を作ることを余儀なくされたそうだ。このことを聞いて、自分たちはこの地方の藩による貧富の差だけをとっても、人々の生活に大きな影響を与えていたことを、強く実感させられた。

 

他にも、堤さんからこの地方の干拓事業についての話も聞くことができた。

佐賀県の有明海といえば、昔から干拓が有名である。この地方もまさにそうであって、以前(いつ頃かは不明)は嘉瀬津のあたりまでが海であったという話を聞いた。嘉瀬津といえばセンニンヅカのあったすぐ南あたりの地名である。僕たちは驚きを隠せなかった。「嘉瀬津」という地名の「津」という字は港や海を表しており、昔そのあたりが海であった名残が残っている、という話も聞いた。

この嘉瀬津あたりの通りを挟んで北側を"カミマチセンゲン"、南側を"シモマチセンゲン"と呼んでいたそうである。名前の由来は、まだこの近辺が海であったころに、港として非常に栄えたからだそうだ。たくさんの家が立ち並び、活気あふれる揚所であったのだろう。

この「嘉瀬津」の話の後に、嘉瀬津の南あたりから昔からの干拓の跡が残っているという、興味深いことを聞くことができた。この干拓の跡の名前を"ミズデイ"というそうだ。なんでも干拓の際に作られた堤防の跡だそうで、それも1つだけではなく、東西にのびる"ミズデイ"が南に向かって何本も何本もあるそうだ。堤さんは、

「このたくさんのミズデイは、干拓が進んでいくにつれて、北からどんどん南に向かって作られていったそうですよ」

とおっしゃっていた。

 

自分は地図を作っている最中から、萩野から嘉瀬川を挟んでちょうど反対側に記されていた火葬場が気になっていたので、この火葬場について話を聞いてみると、この火葬場はもうなくなっているということであった。そのあと聞いたのが、以前、萩野にあったというもう一つの火葬場の話であった。

この火葬場というのは堤さん宅から500メートルほど南側にあったそうである。どうも村に1つの火葬場があったらしく、地図に記されていたほうの火葬場は萩野では使っていなかったらしい。この萩野の火葬場の、現在の土地利用について尋ねてみると、堤さんは笑いながら、

「昔、火葬場だった土地ですからいまはただの空き地ですよ。田んぼもなにもないです。家や田んぼをつくったりすると、なんだか気持ち悪いでしょう。」

と話された。さすがにこの答えには納得するものがあった。

 

次に、堤さんが若いころにどのような遊びをしていたのか聞いてみた。堤さんはしみじみと、いろいろなことを話してくださった。まず最初に聞いたのが、堤さんの少年時代がちょうど戦争と重なっていたという話だ。自分の

「独楽などで遊んでいたんですか?

という質問に対して、とんでもないというような感じで堤さんは答えてくださった。なんでも非常に苦しい生活だったらしく、学校の図工の時間などは材料がなかったために、個人で家からわらを持っていって、それを使っていたほどであった、という話も聞かせてもらった。独楽は結構貴重なものであったらしく、手に入らなかったらしい。

あと聞かせてもらえたのがラムネンタマとペチャであそんでいたということである。ラムネンタマというのは、ラムネの中に入っているビー玉みたいなもののこと。ペチャというのは、めんこのことである。しかし、ペチャに関して堤さんは、

「買うと高いものだったので、自分で紙を貼り合わせて作ってましたよ。」

とペチャをする動作をみせながら語ってくださった。

「水路で泳いだりはしなかったんですか?

という自分たちの問いに対して堤さんは、

「泳いでましたよ。今とは違って川の水も、堀の水もすごくきれいでした。」

と、懐かしそうに話された。

その後に堤さんが思い出してくださったのが、"ハチマンボイ""ロクジャー"という名前である。"ハチマンボイ"とは堀の名前。"ロクジャー"とは"ハチマンボイ"に囲まれた中州のことを指すそうである。

 

これらの話が終わったのち、堤さんが嬉しそうに語られたことがあった。それは、堤さんが自分の田んぼの区画整理をしていたときに出土したという、土瓶の話であった。その土瓶を教育委員会に持っていったところ、なんと、ろくろができる前につくられたものであることが分かったらしい。堤さんは、始めはその土瓶を寄付することも考えたそうだが、そのうち手放すのが惜しくなったそうで、教育委員会の寄付の頼みも断ったということであった。自分たちは非常に驚きながら話に聞き入っていると、堤さんが、

「その土瓶を今もってきましょうか?

と言われたので、「是非お願いします」とお願いした。.

しかし、その土瓶は急には見つからなかったらしく、対面することはできなかった。非常に残念なことだった。

 

もっといろいろ話を聞きたかったのだが、仕事の合間をぬって自分達につきあってくださった堤さんにこれ以上の迷惑がかかってしまってはと思い、おいとますることにした。そののちに、なんと自分たちは喫茶店でごちそうしていただいた。さらには「何か思い出すことがあったら電話しますから。」とまで言ってくださった。

今回お世話になった堤さんとご家族には非常に感謝しております。どうもありがとうございました。

 

 



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